祈りと呪い
あるホームページに「呪文と祈りと私的言語の三つ組」という区分けが出てきている。なぜか「祈り」だけが大和言葉。日本語で哲学書を読んでもサッパリわからないのはこういう混交が行われるからだと思う。
「祈り」と対を作るのは「呪い」。このことを痛切に教えてくれたのが水村美苗の「私小説」の最後の方に出てくる対の英文。
・I am lonely but free.
・I am free but lonely.
もちろん前者が「祈り」。他者に向かって発声することが許される文型。後者は「呪い」。だから発声は許されない。しかしこの文型を脳内で反芻することで、人は脱出手段、あるいは問題解決の枠組みをを見出していくのだ。その反芻活動を、私は「脳内言語」と呼んでいる。
以前、この同じ題材を使って落語家・小朝がNHKで日本語指南をしていた。何故、大会社のおじさんが若い子に好かれないのか。好かれるための日本語指南をしましょう、ってことで・・・。
・君ってちょっと太めだけど、とっても可愛いよ。
・君ってとっても可愛いのに、少し太めだね。
前者を「求愛文」、後者を「説教」という。前者が優れているのはきれい事だけでなく欠点も指摘しているから。だから、さも誠実そうに聞こえるのだ。後者が何故「説教文」かというとそのすぐ後に無言の「もっとダイエットしなさい」というおじさんの「頑張れ」メッセージが聞こえてしまうからだ。
肝心なのは最後を長所でまとめること。
万国共通の会話の要諦は「終わりよければ全てよし」
■逆語序対
■貴卑同源
■サブリミナル効果
■図と地