雅俗融和から雅俗反転へ
2019年以来2年ぶりの投稿です。
2020年の『百人一首の図像学――狂歌絵師北斎 最後の大仕事』に続いて
2021年に『文化史よりみた東洲斎写楽―なぜ寛政六年に登場したのか』と上梓して
やっと私自身、自分の書きたいこと、書くべきことが見えてきました。
北斎を理解するためには江戸文化を理解しなければならないわけですが、そのカギが中野三敏氏のかかげた「雅俗融和」にあるとしても、現在のわれわれは世界的な潮流である言語論的転回の中で生きている以上、「雅俗の分明」そのものを理解しにくくなっています。その分明の内実を21世紀の日本語で取り出さなくては次の世代に伝えることは難しい。
江戸時代は武士と平民の間は決して超えてることのできない一線があることを前提としていた。しかしその一線は関ヶ原の戦いで確定したもので、天然自然のものではないことも皆わかっていた。北斎と西村屋の最後の共同版行は1835年の「百人一首姥がゑとき」であるが、わかる人たちはもう一度、下剋上の世になることを予感していた。
そのことがはっきりしたのはアヘン戦争で清国が分割されてからであるが、清国よりも幕府よりも上の存在があることがはっきりした。来年はそれから奇しくも180年。鎌倉幕府滅亡から江戸幕府成立まで270年だったことを考えると、まだ道半ばではあるが、全く新しい秩序が生まれてくるはずである。
しかしその新しいものは伝統の先にしか見えてこない。だとすれば江戸文化の中に新しいものを見出していく作業に手をつけなければならない。それが雅俗反転の試みである。
たとえば現在は雅の領域に囲い込まれている松尾芭蕉も「古池や」一つでは、雅の先生でしかない。
・古い池や 蛙(かわず)とびこむ 水の音
だが以下の二句をくわえると
・面白うて やがて悲しき 鵜舟かな
・物云えば くちびる寒し 秋の風
以下の三拍子がそろう。
・古今のずらしによる文化の継承
・反転のおもしろさ
・うがちのさびしさ
これで、雅俗が逆転する。
今のおもしろさの裏にあるさびしさを感じ取ることこそが、変わらぬ文芸の道なのだから。
せっかく夏井先生が俳句の面白さの伝道でがんばっても江戸文芸につながらないのはこういう作業がかけているからだと思う。