北斎の『百人一首姥がゑとき』は本当に27枚しかないのか?

2018年3月に上梓した拙著『狂歌絵師 北斎とよむ古事記万葉集批評社
「サブタイトル;北斎はどのようにして百人一首を27枚に要約したのか?」
について、本書は北斎の錦絵は現在見つかっている27枚をもって完成したシリーズとみるべきと主張した。
だが、複数の権威ある美術館の学芸員から「下絵が多数見つかっている以上、北斎には100枚を完成させる意図があった」と考えるべきで、現在の27枚シリーズは未完成品とみなすべきだとの意見をもらったので反論を書きます。
1)先行研究;二書がある

題名 著者 出版社・発行年
A 北斎 百人一首−うばがゑとき− ピーター・モース 岩波書店1996
B 葛飾北斎 百人一首姥がゑとき 田辺昌子 二玄社2011

Aでは下絵図のコレクションが収集されていて多数を実見できるようになっているが、100枚目の下絵図は掲載されていないので、「100枚を完成形」とみる根拠としては不十分である。さらに版下のみで実際には市販されなかった1枚があることも指摘されている。とすれば現在知られているものは最大で27.5枚と考える事ができる。その場合、最後の0.5が販売中止になった理由の推量が大変重要である。

Bでは27枚を一応の完結形とみている。さらに巻末に27枚の発行元が一覧できるようになっている。「冨嶽36景」シリーズの版元であった西村屋与八(永寿堂)からは1,2,3,6,8枚目の5枚だけが上梓されていて、残り22枚は伊勢屋三次郎(栄樹堂)から出ている。耳からは「エイジュドー」と同音である2つの版元から出ているのは「関連はあるけど同一ではない」という含意が見えてくる。つまり公には一つのシリーズとして受け取られることを避けていたのである。

2)シリーズと受け取られることを警戒した理由は何だろうか
それでは何故北斎はシリーズと受け取られることを警戒したのであろう。これは当時の百人一首の普及の在り方と関係する。現在の我々は百人一首がカルタとして普及していることを知っているが、同時にそれが天智天皇からはじまってほぼ時代順に並んだ歌人たちの歌であることを知っている。たとえば『小倉百人一首 田辺聖子 角川文庫』がある。
だが、そののことを知っていたのは江戸時代にはごく少数の人たちだけだった。しかも歌番の掲載されている本には二系統があり、それぞれ国学の流派の違いによっていった。一つは「宗祇抄」と呼ばれる系統で「古今伝授」の挿頭のもとに師から弟子へと正当に伝授された歌の解釈とともに学習されるべきとされていた。その弟子には天皇も含まれる特別なものだった。
もう一つの系統は「百人一首改観抄」と呼ばれるもので大阪の契沖という僧の著作物だった。これは水戸光圀の信頼のあつかった下河辺長流の遺稿を整理したものとして知られている。契沖の一番有名な仕事は徳川光圀から委嘱を受けたとされる『万葉代匠記』で、賀茂真淵本居宣長らの万葉学の礎となっている。ところがもう一つ『和字正濫鈔』という著述があり、友人であった浄厳(5代将軍徳川綱吉柳沢吉保の援助を受けて江戸湯島に霊雲寺を建立したという真言僧)の残した「カタカナの五十音図」を悉曇字で一覧にしたものを「ひらかな」に翻案して出版してしまった。つまり、「ひらかな」が神代からの文字ではなく、悉曇字や漢字の体系から作成された人為artifactであると主張した。だから、守旧的な国学者たちからバッシングを受けている。
つまりカルタ百人一首を庶民が楽しむ分には問題がなかったが、歌の順番までも庶民が議論することは差しさわりがある場合もあった。

3)数字27も要注意の数だった
実は、渋川春海の改暦以来、幕府は28星宿を正とし、仏教系の27宿を表に出さないようにしていたことです。これは徹底していたので、江戸時代の仏教寺院でも28星宿を採用しています。というのは渋川春海の改暦は京都御所の天文方の了承を得る形式で行われ、頒布暦は出雲、伊勢、三島と神社系に行わせていますから暦に関しては神道系にお墨付きを事実上与えていたわけです。
ですから「27枚揃い」などという打ち出しはありえなかった、という以上に27を表に出さないように苦労したのです。だから半刷りの版木が出てきてきているし、下絵も多数残っているのです。「まだまだ売り出しますよ」というメッセージであり、意図されたカモフラージュです。

4)北斎の数字入りシリーズは他にもあるが、狂歌的意味について検討すべき

名称 枚数
風流 なくて七癖
百物語 5
千絵の海   10
姥がゑとき百人一首 27
冨獄三十六景 46

シリーズ「千絵海」10枚があるのですが、フランスの美術館で10枚揃いのものが発見されるまで、10枚以上あるはずだと考えられていました。しかし10枚であるとなれば
10*10*10=1000 ですから
千に三乗数の義を見ていたことになります。
あるいは有名な「冨嶽36景」では実際には46枚あります。これも「10」という数字には意図があったのではと考えてみる必要があると思います。一覧表をおいておきます。
「姥がゑとき」についても売り上げが悪かったから27枚で終わったのだろう、という意見があります。しかし、錦絵は利益と文化的貢献という背反を統合するビジネスの産出物です。
それも北斎と西村屋という超・超・超・第一級のコンビによる仕事だとすればそこに確固とした戦略と意図をまず推量していくべきです。

5)「姥がゑとき」が発行された時代背景と「絵解き」という手法
現在時期としては「冨獄36景」の後に刊行されて、その後の北斎は錦絵ではなく肉筆画へと仕事をうつしていると考えられている。とすれば浮世絵師としては、隠居前の生涯の集大成だったとも考えられます。しかも天保の改革で錦絵に対する幕府の締め付けのもっとも厳しい時期にも当たってます。
だとすれば、これは北斎の「諸国名橋奇覧」「富嶽36景」などが幕政にとってもメリットがあったことをアピールすることに一つの狙いがあったとみるべきです。
時代は伊能忠敬の全国測量が華々しく喧伝されていました。それは、倭国の国土を表現するにしても特に「全体図」は禁忌に触れるわけですが、庶民は「おらが国土・おらが国史」への希求も持っていたのです。幕府としても庶民の教養への要求にこたえる必要も感じていたはずです。
北斎の「諸国名橋奇覧」「富嶽36景」などは、こういう「おらが国土」自慢の系譜にあります。伊能忠敬の全国測量にしても、全図そのものはシーボルト事件につながる禁制品でしたが幕府は測量の事実は民衆とも共有する姿勢でした。それが愛国心の涵養になることは御政道をになうものならば気づいてなければおかしいと思います。
であればその次の仕事が「おらが国史」となっていくのは必然でしょう。万葉集から定家までという国史は大変魅力的な素材でした。しかし100人では冗長すぎます。「国史」にはストーリーが大切だからです。
それに軍記物語などとは違い、「百人一首」に流れているのは「歴史は繰り返し」という哲学です。一番良い例が27枚目と1枚目の対絵で、和歌における重要な概念「返し」を提示してあります。
27枚目は終わりであると同時に、初発でもあるのです。
古歌の道がおわって、近代秀歌の道がはじまり、そして続いていくのです。
藤原摂関家がほろびても源氏の世(徳川も源氏系)が始まり、「おらが国」はますます繁栄していくのです。
時代は喜多川歌麿が失意のうちに市場からさり、幕府の守旧派によって錦絵市場全体が委縮していたのです。版元としては幕閣に対して「絵画メディア」の政治的有用性をアピールする必要があったはずです。国土図だけでなく歴史を絵画にすることで徳川幕府万葉集以来の正統な王権であることをアッピールするという企画はそれなりに魅力のあるものだったはずです。ただ国史百人一首と同じく流派によって激しい対立があったので、あからさまな表現は避けなければならなかった。そこで「合わせ絵」という方法が用いられ、そこに絵解きの楽しみも加わった魅力つけが行われたと考えます。

27枚目  来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに焼くや藻塩の 身もこがれつつ  定家
1枚目 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ  天智天皇
合わせ絵;27枚目を1枚目へと返す「つつ」つながり


なお、、『日本美術全集15;小学館』にはシリーズ「百人一首姥がゑとき」は全く取り上げられていない。とても残念なことだ。