接遇表現;花に水をやる vs  花に水をあげる

  日本語教育の勉強を始めると上記の文例でまずいやな感じをもつ。説明として「あげる」の方が丁寧だからという接遇問題としてしか捉えられていないからだ。そして日本語は非論理的であるのみならず、非論理的であることこそが日本語の美質だという、これまた時代錯誤の日本語観を植えつけられる。
   先日,NHKの番組をみていたら、以下の三つの例文のうち真ん中の一例だけを非文とする接遇コンサルタントの意見が流れてきた。まだ給与所得者だった時に出会った、あの集団の慇懃無礼、理屈じゃないという問答無用のパーソナリティを思い出してちょっと悲しくなった。娘も入社して早速マインドコントロールを受けていた。そろそろああういう集団は合理的な企業から撤退してほしいものだ。英語の社内公用語化のまえに、そういう既成勢力の権益の一掃が求められる。
1、植木に水をあげてください。
2、輪切りにしたきゅうりをよくもんであげてください。
3、赤ちゃんの服はサイズをよくあわせてあげてください。
    何のことはない。文例2は、きゅうりという物objectを対格にもち、〈あげて〉を省略しても意味は変わらないのだから〈やる・あげる〉の問題ではなく重複動詞非文なのである。


  次に、構文解析をする力があれば、1と3ともきっちり弁別できるし、しなければおかしい。
文例1は〈うちの子には〉構文と名づけることができ、補助動詞〈やる・あげる〉の前の本動詞が省略されている形式だ。例は以下。
1−1、ジョウロで、うちの庭の芝生に水をかけてください。 
1−2、ジョウロで、うちの庭の芝生に水をかけてヤッテ(/アゲテ)ください。 
1−3、スプリンクラーでうちの芝生に水をまいてください。
1−4、スプリンクラーでうちの芝生に水をまいてヤッテ(/アゲテ)ください。
1−5、うちの犬に餌を与えてやれ
1−6、うちの犬に餌を与えてヤッテ(/アゲテ)おくれ
1−7、うちの子にご飯を食べさせてください
1−8、うちの子にご飯を食べさせてヤッテ(/アゲテ)ください
    上の文例群を眺めれば〈やる・あげる〉が〈謙譲・尊敬〉にほぼ対応していることがわかるはずだ。とすればどこかに消えてしまった現代日本における〈謙譲表現〉がどこにどのように噴出しているのか、という問いと、その結果の功罪についても予測が立てられるはずだ。



文例3はテレビの高みから流すような基本文型ではない。文脈がなければ意味がわからない。多分、赤ちゃん用品の店員の客へのトークの文例のようであるが、展開するのは難しい。無理に試みれば以下。
3−1、赤ちゃんの服を選ぶときには、赤ちゃんの体のサイズに合うものを選んであげてください。
3−2、赤ちゃんの服のサイズは、赤ちゃんの体に合うものを選んでヤッテください。(客が謙遜して専門技術職の店員に依頼する古語)
3−3、赤ちゃんの服のサイズは、赤ちゃんの体に合うものを選んでアゲテください。(店員が客ないし客の赤ちゃんを尊敬して使う表現)

   「来てやった」「行ってやる」「買ってやる」などの表現が押し付けがましいのは、〈凸凹同源〉によって、文脈が違うと意味が反転するからで、今回は分析しない。あるいは子供がよく使う「先生、やって」とか「先生がお話してくれるって。やったね」などの表現も別途解析することができる。


重複動詞-非文
〈うちの子には〉構文
畳語動詞〈やってやる〉〈あげてあげる〉〈くれてくれ〉
擬似逆語序〈来てやった・やってきた〉〈行ってやった・やっていった〉〈言ってやった・やっていった〉