物実・実物

訓「実さね」が導入された最初は古事記のアマテラスとスサノオの誓約の場面。
「於是天照大御神、告速須佐之男命「是後所生五柱男子者、物實因我物所成、故、自吾子也。先所生之三柱女子者、物實因汝物所成、故、乃汝子也。」如此詔別也。」


スサノオの剣からは三女神が、アマテラスのミズラの珠からは五柱男子が生まれた事実の原因としての「物實」と云っている。ここで「実物」と対立する概念として「物実」が提出され、学校ではこれを「ものざね」と読むと習う。

ところが日本書紀には崇神天皇の条で「物實」が登場するが、この訓は「望能志呂」と明記されているから「ものしろ」と読むように指定されていることになる。
「十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。壬子、大彥命、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰、一云、大彥命到山背平坂、時道側有童女歌之曰、
瀰磨紀異利寐胡播揶 飫迺餓鳥塢 志齊務苔 農殊末句志羅珥 比賣那素寐殊望
一云「於朋耆妬庸利 于介伽卑氐 許呂佐務苔 須羅句塢志羅珥 比賣那素寐須望」於
是、大彥命異之、問童女曰「汝言何辭。」對曰「勿言也、唯歌耳。」乃重詠先歌、忽不見矣。大彥乃還而具以狀奏。於是、天皇姑倭迹々日百襲姬命、聰明叡智、能識未然、乃知其歌怪、言于天皇「是武埴安彥將謀反之表者也。吾聞、武埴安彥之妻吾田媛、密來之、取倭香山土、裹領巾頭而祈曰『是倭國之物實』乃反之。物實、此云望能志呂。是以、知有事焉。非早圖、必後之。」

 
話の筋としては道で童女が口にしていた片言から謀反の予兆を見て、天皇が先手をうったということだが、ここでは「物実」は「倭香山土」とあるから、物といっても形のある物体ではなく物質をさしている。さらに弁別するとすれば「處ところの内実」ということになる。

いっぽう、古事記の読みは「物体の内実」には「ものざね」をあてて弁別してきたことになる。

さねかずら(真葛・実葛)

抄25 名にし負はば 逢坂山の さねかずら 人に知られで 来るよしもがな
百人一首の中でも人気の三条右大臣の歌の中の歌語である。


小倉百人一首田辺聖子;角川文庫』によれば三条右大臣の本名は藤原定方で、父親の高藤は山科で狩の途中に雨宿りをした屋敷の姫と結ばれ女の子が生まれたので京の本宅に引き取って生涯この妻一人を大切にしたという、まさに近代欧米の一夫一妻志向の恋愛観からも優等生である。その後に生まれたのが定国、定方兄弟。
しかもこの女の子を嫁がせた源定省が実は光孝天皇の息子で臣籍降下していたのだが、後継ぎが定まっていなかったので天皇崩御の後、復籍して宇田天皇となった。この歌はその両親の思い出を歌ったものといわれている。対語「名に負わば・人に知られで」の対語によって両親の思いもかけない出会いとその結果の成功をよく表現している。
ところが歌語「さねかずら」が有名になってデジタル大辞泉をひくと「モクレン科の蔓性の常緑低木。雌雄異株で夏黄白色の花をつける。樹液から粘性の液がとれ整髪料としてもちいられた」とある。第二項として「さなかずら」に同じとあり、当て字は「真葛・実葛」とある。
当然一夜の契りの結果を歌っているのだから整髪料の原料ではおかしい。それで「さなかずら」をひくと万207と万3280を引用している他に古事記の「根をつき、その汁の滑をとりて;中巻」も出てくる。料理をしたことのない人にはわからないだろうが、これは葛粉の原料である三出葉の「真葛」のことになる。やはり実を採集する植物ではない。
では当て字の「実葛」にふさわしい植物はどんなものが考えられるだろうか。もっともつまらない、つまり平凡な連想からは蔓性のウリ科植物が浮かぶ。ところが、この品種はそれこそ多種多様。先日のスープをつくったカボチャから、甜(まくわ)瓜、冬瓜、西瓜、かんぴょうまで含まれる。さらにはヒョウタンも含まれる。色も白から黄色、橙色と多様で、西瓜のように班目のものもある。形象も球形から楕円形、そしていわゆる瓢箪型まで多種多様で品種名と実の色や形状は関連がない。

では万葉集ではどのように歌われているのだろうか。
万207は「柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌」で、中に「さなかづら のちもあはむ」とある。万3280は巻3の相聞の歌57首(3248~3304)の一で、万3280(左奈鬘)、3281(左奈鬘)、3288(木妨己)の3首を見る事ができる。歌意は背の君がなかなか来ないのでさびしいということで「さねかづら のちもあはむ」に「再度会いたい」「一度の契りをもっと確かなものにしたい」ということだから定方の抄25の本歌にふさわしい。そして「真葛」の形象はどこまでも延伸する「∧∧∧∧」あるいは「∨∨∨∨」で「三出葉の真葛」をあててもいいと考えられる。この場合の用字としては「真蔓」の方がふさわしい。


一方、巻2の万94は藤原鎌足の歌で万93と「玉匣;たまくしげ」で結ばれた対歌がある。
万93    内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首
玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
      たまくしげ おほふをやすみ あけていかば きみがなはあれど わがなしをしも


万94    内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首
玉匣 将見圓山乃 狭名葛 佐不寐者遂尓 有勝麻之自
(或本歌曰  玉匣 三室戸山乃)
   たまくしげ 見む円山の さなかづら さねずはつひに ありかつましじ
    (或本歌曰  たまくしげ みむろとやまの)

歌意は万93が「蓋を閉じておけば安全なのに、開けてあなたがお帰りになったらあなたはいいでしょうけど、私は浮名がたって困ります」と言っているのに対し万94では「円山のさなかずらも寝なければ いつか玉を得るということにはならない」といって「明け方まで逗留して枕を交わそう」と誘っている。これは当時の上流の人々にとって「子をなす」ということが男女双方にとってその関係を安定させる喜ばしいことだとわからないと理解しにくいが、この歌によって根から有用物を採取する葛の形象を円形である実へと転換している。
その義をさらに明確にするのが歌語「たまかずら」で、その形象は「〇-〇-〇-〇-」がふさわしい。これが「実葛」であろう。万葉集では13首に取られている。多い歌語は「いやつぎつぎに たまかづら たゆることなく」とか反対に「たまかづら たえむのこころ」などの歌語が出てくる。
そして、男女の交わりの結果としての「実」の義で歌われている対歌が同じく巻2に巨勢郎女(近江朝大納言巨勢人卿之女)と大伴宿祢安麻呂(難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子)の娉歌としておかれている。
万101    玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曽著常云 不成樹別尓  大伴宿祢安麻呂
     たまかづら みならぬきには ちはやぶる かみぞつくといふ ならぬきごとに


万102   玉葛 花耳開而 不成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎  巨勢郎女
     たまかづら はなのみさきて ならずあるは たがこひにあらめ あれこひもふを
歌意は実のならない責任は男性にあるといっている。これも、子の原因としての父という概念の新しさがわからないと面白くないが、一般的には「妹の子」というのは男性の行為の結果であるかどうか確定できていなった時代の名残と考えることができる。
 
なお、蔓性の植物で忘れてはならないのは「藤」で、他にも蔓性の豆の木などは西洋の昔話で有名。もう少しレアなのは蔓性のバラで「茨いばら」がある。西洋ではこの蔓で編んだ衣で魔法にかけられた弟王子たちを救う王女の話がある。

北斎の『百人一首姥がゑとき』は本当に27枚しかないのか?

2018年3月に上梓した拙著『狂歌絵師 北斎とよむ古事記万葉集批評社
「サブタイトル;北斎はどのようにして百人一首を27枚に要約したのか?」
について、本書は北斎の錦絵は現在見つかっている27枚をもって完成したシリーズとみるべきと主張した。
だが、複数の権威ある美術館の学芸員から「下絵が多数見つかっている以上、北斎には100枚を完成させる意図があった」と考えるべきで、現在の27枚シリーズは未完成品とみなすべきだとの意見をもらったので反論を書きます。
1)先行研究;二書がある

題名 著者 出版社・発行年
A 北斎 百人一首−うばがゑとき− ピーター・モース 岩波書店1996
B 葛飾北斎 百人一首姥がゑとき 田辺昌子 二玄社2011

Aでは下絵図のコレクションが収集されていて多数を実見できるようになっているが、100枚目の下絵図は掲載されていないので、「100枚を完成形」とみる根拠としては不十分である。さらに版下のみで実際には市販されなかった1枚があることも指摘されている。とすれば現在知られているものは最大で27.5枚と考える事ができる。その場合、最後の0.5が販売中止になった理由の推量が大変重要である。

Bでは27枚を一応の完結形とみている。さらに巻末に27枚の発行元が一覧できるようになっている。「冨嶽36景」シリーズの版元であった西村屋与八(永寿堂)からは1,2,3,6,8枚目の5枚だけが上梓されていて、残り22枚は伊勢屋三次郎(栄樹堂)から出ている。耳からは「エイジュドー」と同音である2つの版元から出ているのは「関連はあるけど同一ではない」という含意が見えてくる。つまり公には一つのシリーズとして受け取られることを避けていたのである。

2)シリーズと受け取られることを警戒した理由は何だろうか
それでは何故北斎はシリーズと受け取られることを警戒したのであろう。これは当時の百人一首の普及の在り方と関係する。現在の我々は百人一首がカルタとして普及していることを知っているが、同時にそれが天智天皇からはじまってほぼ時代順に並んだ歌人たちの歌であることを知っている。たとえば『小倉百人一首 田辺聖子 角川文庫』がある。
だが、そののことを知っていたのは江戸時代にはごく少数の人たちだけだった。しかも歌番の掲載されている本には二系統があり、それぞれ国学の流派の違いによっていった。一つは「宗祇抄」と呼ばれる系統で「古今伝授」の挿頭のもとに師から弟子へと正当に伝授された歌の解釈とともに学習されるべきとされていた。その弟子には天皇も含まれる特別なものだった。
もう一つの系統は「百人一首改観抄」と呼ばれるもので大阪の契沖という僧の著作物だった。これは水戸光圀の信頼のあつかった下河辺長流の遺稿を整理したものとして知られている。契沖の一番有名な仕事は徳川光圀から委嘱を受けたとされる『万葉代匠記』で、賀茂真淵本居宣長らの万葉学の礎となっている。ところがもう一つ『和字正濫鈔』という著述があり、友人であった浄厳(5代将軍徳川綱吉柳沢吉保の援助を受けて江戸湯島に霊雲寺を建立したという真言僧)の残した「カタカナの五十音図」を悉曇字で一覧にしたものを「ひらかな」に翻案して出版してしまった。つまり、「ひらかな」が神代からの文字ではなく、悉曇字や漢字の体系から作成された人為artifactであると主張した。だから、守旧的な国学者たちからバッシングを受けている。
つまりカルタ百人一首を庶民が楽しむ分には問題がなかったが、歌の順番までも庶民が議論することは差しさわりがある場合もあった。

3)数字27も要注意の数だった
実は、渋川春海の改暦以来、幕府は28星宿を正とし、仏教系の27宿を表に出さないようにしていたことです。これは徹底していたので、江戸時代の仏教寺院でも28星宿を採用しています。というのは渋川春海の改暦は京都御所の天文方の了承を得る形式で行われ、頒布暦は出雲、伊勢、三島と神社系に行わせていますから暦に関しては神道系にお墨付きを事実上与えていたわけです。
ですから「27枚揃い」などという打ち出しはありえなかった、という以上に27を表に出さないように苦労したのです。だから半刷りの版木が出てきてきているし、下絵も多数残っているのです。「まだまだ売り出しますよ」というメッセージであり、意図されたカモフラージュです。

4)北斎の数字入りシリーズは他にもあるが、狂歌的意味について検討すべき

名称 枚数
風流 なくて七癖
百物語 5
千絵の海   10
姥がゑとき百人一首 27
冨獄三十六景 46

シリーズ「千絵海」10枚があるのですが、フランスの美術館で10枚揃いのものが発見されるまで、10枚以上あるはずだと考えられていました。しかし10枚であるとなれば
10*10*10=1000 ですから
千に三乗数の義を見ていたことになります。
あるいは有名な「冨嶽36景」では実際には46枚あります。これも「10」という数字には意図があったのではと考えてみる必要があると思います。一覧表をおいておきます。
「姥がゑとき」についても売り上げが悪かったから27枚で終わったのだろう、という意見があります。しかし、錦絵は利益と文化的貢献という背反を統合するビジネスの産出物です。
それも北斎と西村屋という超・超・超・第一級のコンビによる仕事だとすればそこに確固とした戦略と意図をまず推量していくべきです。

5)「姥がゑとき」が発行された時代背景と「絵解き」という手法
現在時期としては「冨獄36景」の後に刊行されて、その後の北斎は錦絵ではなく肉筆画へと仕事をうつしていると考えられている。とすれば浮世絵師としては、隠居前の生涯の集大成だったとも考えられます。しかも天保の改革で錦絵に対する幕府の締め付けのもっとも厳しい時期にも当たってます。
だとすれば、これは北斎の「諸国名橋奇覧」「富嶽36景」などが幕政にとってもメリットがあったことをアピールすることに一つの狙いがあったとみるべきです。
時代は伊能忠敬の全国測量が華々しく喧伝されていました。それは、倭国の国土を表現するにしても特に「全体図」は禁忌に触れるわけですが、庶民は「おらが国土・おらが国史」への希求も持っていたのです。幕府としても庶民の教養への要求にこたえる必要も感じていたはずです。
北斎の「諸国名橋奇覧」「富嶽36景」などは、こういう「おらが国土」自慢の系譜にあります。伊能忠敬の全国測量にしても、全図そのものはシーボルト事件につながる禁制品でしたが幕府は測量の事実は民衆とも共有する姿勢でした。それが愛国心の涵養になることは御政道をになうものならば気づいてなければおかしいと思います。
であればその次の仕事が「おらが国史」となっていくのは必然でしょう。万葉集から定家までという国史は大変魅力的な素材でした。しかし100人では冗長すぎます。「国史」にはストーリーが大切だからです。
それに軍記物語などとは違い、「百人一首」に流れているのは「歴史は繰り返し」という哲学です。一番良い例が27枚目と1枚目の対絵で、和歌における重要な概念「返し」を提示してあります。
27枚目は終わりであると同時に、初発でもあるのです。
古歌の道がおわって、近代秀歌の道がはじまり、そして続いていくのです。
藤原摂関家がほろびても源氏の世(徳川も源氏系)が始まり、「おらが国」はますます繁栄していくのです。
時代は喜多川歌麿が失意のうちに市場からさり、幕府の守旧派によって錦絵市場全体が委縮していたのです。版元としては幕閣に対して「絵画メディア」の政治的有用性をアピールする必要があったはずです。国土図だけでなく歴史を絵画にすることで徳川幕府万葉集以来の正統な王権であることをアッピールするという企画はそれなりに魅力のあるものだったはずです。ただ国史百人一首と同じく流派によって激しい対立があったので、あからさまな表現は避けなければならなかった。そこで「合わせ絵」という方法が用いられ、そこに絵解きの楽しみも加わった魅力つけが行われたと考えます。

27枚目  来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに焼くや藻塩の 身もこがれつつ  定家
1枚目 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ  天智天皇
合わせ絵;27枚目を1枚目へと返す「つつ」つながり


なお、、『日本美術全集15;小学館』にはシリーズ「百人一首姥がゑとき」は全く取り上げられていない。とても残念なことだ。