北斎の「百物語」は5枚しかない

以下の5枚である。

・お岩さん
皿屋敷
・笑ひはんにや
・しうねん
・小はだ小平二


百人一首姥がゑとき」の方は27枚が知られているが、版元が二つあり、そのうち西村屋与八からは5枚が上梓され、残りの22枚は新興の伊勢屋三次郎から出ている。もっとも店名は「永寿堂・栄樹堂」だから耳からは同名に聞こえる。しかし西村屋は名門。西村屋から出たのは1,2,3,6,8枚目。
1枚目、天智天皇 歌1番
2枚目、持統天皇 歌2番
3枚目、柿本人麻呂 歌3番
6枚目、中納言家持 歌6番
8枚目、小野小町 歌9番 


数字の繋がりから北斎さんの意図を読み解くのは現在の力量では難しいが、いつか読み解いてみたい。
 

北斎の「江戸六景」か

オランダのライデン国立民族学博物館に所蔵され、長く作者不明だった6枚の絵が江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849)による西洋風肉筆画だったことが、昨年判明したという記事に出てくる六枚は江戸の風俗浮世絵であるが、1枚だけは原画は存在せず石版画とされている。
https://www.nishinippon.co.jp/feature/attention/article/346252/
北斎の黒白絵と言えば「風流無くて七くせ」の1枚「ほおずき」が黒白絵と色絵の二種類が残残されていることを想起する。当然「ほおずき」ならば音が聞こえてくるのだから黒白絵の方が効果的だったはずで、こちらを正として考えてもいのでは、と長年考えてきた。 https://ja.ukiyo-e.org/image/ritsumei/Z0170-060
だが、浮世絵の初学者向けの書物ではこのような黒白絵の存在を記載するものは少ない。最近見つけた『江戸の絵本―画像とテキストの綾なせる世界; 2010』にはいくつか論考がのっていたが北斎についての記述は見かけていない。

それでここでできた6枚について詳しく見てみた。
1)富士山が描かれているのは3枚で、その大きさの順は石版画とされる永代橋隅田川の南方)、日本橋隅田川から西へ)、両国橋(隅田川の北方)となっている。
2)江戸の最南端は品川の東面図で満月がすこし昇っている。
3)日本橋隅田川から西へ)、両国橋(隅田川の北方)の両図は、橋と艀を合わせた図柄で北斎の好んだ画題。「冨獄36景;御厩川岸より両国橋夕陽見」として名高いのですぐにわかるもの。
4)「橋場の渡し」と「永代橋」の図には帆掛け舟の図柄でくくることができ、前者は帆を上げている数隻が見られるが、後者ではすべて帆を下ろしている。
5)最後が「雪景色」で、木立の中の高殿とその横の川べりの大通りにそった家並みが描かれている。

この6枚図を六景図としてよむためには3組の対絵としてとらえる必要があるのだが、上の図柄分析をもとに以下のようにまとめた。
・「永代橋・橋場の渡し」
鍵は帆掛け舟で、「永代橋」では帆が閉じているので「天地の地」を表象する。富士山が高いのは南山に上ったので高く見えると考える。「橋場の渡し」は帆掛け舟が運航しているので「天の帆掛け舟」を表象すると考える事ができるから「天地の天」にあてる。
・「品川の東面図・日本橋の富士見図」
日本橋図には弁柄を多用した家並みと艀をおき、南山に近いことを表象しているから未申(ひつじさる)。当然、対絵には品川の東面図がふさわしく方角としては巽(たつみ)となる。
・「両国橋の富士見図・雪景色」
一番北にある両国橋は(いぬゐ)で、雪景色は艮(うしとら)となる。そうであれば「雪景色」の図柄に出てくる川べりは隅田川の左岸、あるいは西岸ということになる。

他にいろいろの解釈が可能ですが、ここでは「石版画の永代橋」という謎を軸に考察した。


 補足情報;
■オランダのライデン国立民族学博物館
■マティ・フォラー氏が長崎市発行の学術誌に寄せた論文

物実・実物

訓「実さね」が導入された最初は古事記のアマテラスとスサノオの誓約の場面。
「於是天照大御神、告速須佐之男命「是後所生五柱男子者、物實因我物所成、故、自吾子也。先所生之三柱女子者、物實因汝物所成、故、乃汝子也。」如此詔別也。」


スサノオの剣からは三女神が、アマテラスのミズラの珠からは五柱男子が生まれた事実の原因としての「物實」と云っている。ここで「実物」と対立する概念として「物実」が提出され、学校ではこれを「ものざね」と読むと習う。

ところが日本書紀には崇神天皇の条で「物實」が登場するが、この訓は「望能志呂」と明記されているから「ものしろ」と読むように指定されていることになる。
「十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。壬子、大彥命、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰、一云、大彥命到山背平坂、時道側有童女歌之曰、
瀰磨紀異利寐胡播揶 飫迺餓鳥塢 志齊務苔 農殊末句志羅珥 比賣那素寐殊望
一云「於朋耆妬庸利 于介伽卑氐 許呂佐務苔 須羅句塢志羅珥 比賣那素寐須望」於
是、大彥命異之、問童女曰「汝言何辭。」對曰「勿言也、唯歌耳。」乃重詠先歌、忽不見矣。大彥乃還而具以狀奏。於是、天皇姑倭迹々日百襲姬命、聰明叡智、能識未然、乃知其歌怪、言于天皇「是武埴安彥將謀反之表者也。吾聞、武埴安彥之妻吾田媛、密來之、取倭香山土、裹領巾頭而祈曰『是倭國之物實』乃反之。物實、此云望能志呂。是以、知有事焉。非早圖、必後之。」

 
話の筋としては道で童女が口にしていた片言から謀反の予兆を見て、天皇が先手をうったということだが、ここでは「物実」は「倭香山土」とあるから、物といっても形のある物体ではなく物質をさしている。さらに弁別するとすれば「處ところの内実」ということになる。

いっぽう、古事記の読みは「物体の内実」には「ものざね」をあてて弁別してきたことになる。