さねかずら(真葛・実葛)

抄25 名にし負はば 逢坂山の さねかずら 人に知られで 来るよしもがな
百人一首の中でも人気の三条右大臣の歌の中の歌語である。


小倉百人一首田辺聖子;角川文庫』によれば三条右大臣の本名は藤原定方で、父親の高藤は山科で狩の途中に雨宿りをした屋敷の姫と結ばれ女の子が生まれたので京の本宅に引き取って生涯この妻一人を大切にしたという、まさに近代欧米の一夫一妻志向の恋愛観からも優等生である。その後に生まれたのが定国、定方兄弟。
しかもこの女の子を嫁がせた源定省が実は光孝天皇の息子で臣籍降下していたのだが、後継ぎが定まっていなかったので天皇崩御の後、復籍して宇田天皇となった。この歌はその両親の思い出を歌ったものといわれている。対語「名に負わば・人に知られで」の対語によって両親の思いもかけない出会いとその結果の成功をよく表現している。
ところが歌語「さねかずら」が有名になってデジタル大辞泉をひくと「モクレン科の蔓性の常緑低木。雌雄異株で夏黄白色の花をつける。樹液から粘性の液がとれ整髪料としてもちいられた」とある。第二項として「さなかずら」に同じとあり、当て字は「真葛・実葛」とある。
当然一夜の契りの結果を歌っているのだから整髪料の原料ではおかしい。それで「さなかずら」をひくと万207と万3280を引用している他に古事記の「根をつき、その汁の滑をとりて;中巻」も出てくる。料理をしたことのない人にはわからないだろうが、これは葛粉の原料である三出葉の「真葛」のことになる。やはり実を採集する植物ではない。
では当て字の「実葛」にふさわしい植物はどんなものが考えられるだろうか。もっともつまらない、つまり平凡な連想からは蔓性のウリ科植物が浮かぶ。ところが、この品種はそれこそ多種多様。先日のスープをつくったカボチャから、甜(まくわ)瓜、冬瓜、西瓜、かんぴょうまで含まれる。さらにはヒョウタンも含まれる。色も白から黄色、橙色と多様で、西瓜のように班目のものもある。形象も球形から楕円形、そしていわゆる瓢箪型まで多種多様で品種名と実の色や形状は関連がない。

では万葉集ではどのように歌われているのだろうか。
万207は「柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌」で、中に「さなかづら のちもあはむ」とある。万3280は巻3の相聞の歌57首(3248~3304)の一で、万3280(左奈鬘)、3281(左奈鬘)、3288(木妨己)の3首を見る事ができる。歌意は背の君がなかなか来ないのでさびしいということで「さねかづら のちもあはむ」に「再度会いたい」「一度の契りをもっと確かなものにしたい」ということだから定方の抄25の本歌にふさわしい。そして「真葛」の形象はどこまでも延伸する「∧∧∧∧」あるいは「∨∨∨∨」で「三出葉の真葛」をあててもいいと考えられる。この場合の用字としては「真蔓」の方がふさわしい。


一方、巻2の万94は藤原鎌足の歌で万93と「玉匣;たまくしげ」で結ばれた対歌がある。
万93    内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首
玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
      たまくしげ おほふをやすみ あけていかば きみがなはあれど わがなしをしも


万94    内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首
玉匣 将見圓山乃 狭名葛 佐不寐者遂尓 有勝麻之自
(或本歌曰  玉匣 三室戸山乃)
   たまくしげ 見む円山の さなかづら さねずはつひに ありかつましじ
    (或本歌曰  たまくしげ みむろとやまの)

歌意は万93が「蓋を閉じておけば安全なのに、開けてあなたがお帰りになったらあなたはいいでしょうけど、私は浮名がたって困ります」と言っているのに対し万94では「円山のさなかずらも寝なければ いつか玉を得るということにはならない」といって「明け方まで逗留して枕を交わそう」と誘っている。これは当時の上流の人々にとって「子をなす」ということが男女双方にとってその関係を安定させる喜ばしいことだとわからないと理解しにくいが、この歌によって根から有用物を採取する葛の形象を円形である実へと転換している。
その義をさらに明確にするのが歌語「たまかずら」で、その形象は「〇-〇-〇-〇-」がふさわしい。これが「実葛」であろう。万葉集では13首に取られている。多い歌語は「いやつぎつぎに たまかづら たゆることなく」とか反対に「たまかづら たえむのこころ」などの歌語が出てくる。
そして、男女の交わりの結果としての「実」の義で歌われている対歌が同じく巻2に巨勢郎女(近江朝大納言巨勢人卿之女)と大伴宿祢安麻呂(難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子)の娉歌としておかれている。
万101    玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曽著常云 不成樹別尓  大伴宿祢安麻呂
     たまかづら みならぬきには ちはやぶる かみぞつくといふ ならぬきごとに


万102   玉葛 花耳開而 不成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎  巨勢郎女
     たまかづら はなのみさきて ならずあるは たがこひにあらめ あれこひもふを
歌意は実のならない責任は男性にあるといっている。これも、子の原因としての父という概念の新しさがわからないと面白くないが、一般的には「妹の子」というのは男性の行為の結果であるかどうか確定できていなった時代の名残と考えることができる。
 
なお、蔓性の植物で忘れてはならないのは「藤」で、他にも蔓性の豆の木などは西洋の昔話で有名。もう少しレアなのは蔓性のバラで「茨いばら」がある。西洋ではこの蔓で編んだ衣で魔法にかけられた弟王子たちを救う王女の話がある。

北斎の『百人一首姥がゑとき』は本当に27枚しかないのか?

2018年3月に上梓した拙著『狂歌絵師 北斎とよむ古事記万葉集批評社
「サブタイトル;北斎はどのようにして百人一首を27枚に要約したのか?」
について、本書は北斎の錦絵は現在見つかっている27枚をもって完成したシリーズとみるべきと主張した。
だが、複数の権威ある美術館の学芸員から「下絵が多数見つかっている以上、北斎には100枚を完成させる意図があった」と考えるべきで、現在の27枚シリーズは未完成品とみなすべきだとの意見をもらったので反論を書きます。
1)先行研究;二書がある

題名 著者 出版社・発行年
A 北斎 百人一首−うばがゑとき− ピーター・モース 岩波書店1996
B 葛飾北斎 百人一首姥がゑとき 田辺昌子 二玄社2011

Aでは下絵図のコレクションが収集されていて多数を実見できるようになっているが、100枚目の下絵図は掲載されていないので、「100枚を完成形」とみる根拠としては不十分である。さらに版下のみで実際には市販されなかった1枚があることも指摘されている。とすれば現在知られているものは最大で27.5枚と考える事ができる。その場合、最後の0.5が販売中止になった理由の推量が大変重要である。

Bでは27枚を一応の完結形とみている。さらに巻末に27枚の発行元が一覧できるようになっている。「冨嶽36景」シリーズの版元であった西村屋与八(永寿堂)からは1,2,3,6,8枚目の5枚だけが上梓されていて、残り22枚は伊勢屋三次郎(栄樹堂)から出ている。耳からは「エイジュドー」と同音である2つの版元から出ているのは「関連はあるけど同一ではない」という含意が見えてくる。つまり公には一つのシリーズとして受け取られることを避けていたのである。

2)シリーズと受け取られることを警戒した理由は何だろうか
それでは何故北斎はシリーズと受け取られることを警戒したのであろう。これは当時の百人一首の普及の在り方と関係する。現在の我々は百人一首がカルタとして普及していることを知っているが、同時にそれが天智天皇からはじまってほぼ時代順に並んだ歌人たちの歌であることを知っている。たとえば『小倉百人一首 田辺聖子 角川文庫』がある。
だが、そののことを知っていたのは江戸時代にはごく少数の人たちだけだった。しかも歌番の掲載されている本には二系統があり、それぞれ国学の流派の違いによっていった。一つは「宗祇抄」と呼ばれる系統で「古今伝授」の挿頭のもとに師から弟子へと正当に伝授された歌の解釈とともに学習されるべきとされていた。その弟子には天皇も含まれる特別なものだった。
もう一つの系統は「百人一首改観抄」と呼ばれるもので大阪の契沖という僧の著作物だった。これは水戸光圀の信頼のあつかった下河辺長流の遺稿を整理したものとして知られている。契沖の一番有名な仕事は徳川光圀から委嘱を受けたとされる『万葉代匠記』で、賀茂真淵本居宣長らの万葉学の礎となっている。ところがもう一つ『和字正濫鈔』という著述があり、友人であった浄厳(5代将軍徳川綱吉柳沢吉保の援助を受けて江戸湯島に霊雲寺を建立したという真言僧)の残した「カタカナの五十音図」を悉曇字で一覧にしたものを「ひらかな」に翻案して出版してしまった。つまり、「ひらかな」が神代からの文字ではなく、悉曇字や漢字の体系から作成された人為artifactであると主張した。だから、守旧的な国学者たちからバッシングを受けている。
つまりカルタ百人一首を庶民が楽しむ分には問題がなかったが、歌の順番までも庶民が議論することは差しさわりがある場合もあった。

3)数字27も要注意の数だった
実は、渋川春海の改暦以来、幕府は28星宿を正とし、仏教系の27宿を表に出さないようにしていたことです。これは徹底していたので、江戸時代の仏教寺院でも28星宿を採用しています。というのは渋川春海の改暦は京都御所の天文方の了承を得る形式で行われ、頒布暦は出雲、伊勢、三島と神社系に行わせていますから暦に関しては神道系にお墨付きを事実上与えていたわけです。
ですから「27枚揃い」などという打ち出しはありえなかった、という以上に27を表に出さないように苦労したのです。だから半刷りの版木が出てきてきているし、下絵も多数残っているのです。「まだまだ売り出しますよ」というメッセージであり、意図されたカモフラージュです。

4)北斎の数字入りシリーズは他にもあるが、狂歌的意味について検討すべき

名称 枚数
風流 なくて七癖
百物語 5
千絵の海   10
姥がゑとき百人一首 27
冨獄三十六景 46

シリーズ「千絵海」10枚があるのですが、フランスの美術館で10枚揃いのものが発見されるまで、10枚以上あるはずだと考えられていました。しかし10枚であるとなれば
10*10*10=1000 ですから
千に三乗数の義を見ていたことになります。
あるいは有名な「冨嶽36景」では実際には46枚あります。これも「10」という数字には意図があったのではと考えてみる必要があると思います。一覧表をおいておきます。
「姥がゑとき」についても売り上げが悪かったから27枚で終わったのだろう、という意見があります。しかし、錦絵は利益と文化的貢献という背反を統合するビジネスの産出物です。
それも北斎と西村屋という超・超・超・第一級のコンビによる仕事だとすればそこに確固とした戦略と意図をまず推量していくべきです。

5)「姥がゑとき」が発行された時代背景と「絵解き」という手法
現在時期としては「冨獄36景」の後に刊行されて、その後の北斎は錦絵ではなく肉筆画へと仕事をうつしていると考えられている。とすれば浮世絵師としては、隠居前の生涯の集大成だったとも考えられます。しかも天保の改革で錦絵に対する幕府の締め付けのもっとも厳しい時期にも当たってます。
だとすれば、これは北斎の「諸国名橋奇覧」「富嶽36景」などが幕政にとってもメリットがあったことをアピールすることに一つの狙いがあったとみるべきです。
時代は伊能忠敬の全国測量が華々しく喧伝されていました。それは、倭国の国土を表現するにしても特に「全体図」は禁忌に触れるわけですが、庶民は「おらが国土・おらが国史」への希求も持っていたのです。幕府としても庶民の教養への要求にこたえる必要も感じていたはずです。
北斎の「諸国名橋奇覧」「富嶽36景」などは、こういう「おらが国土」自慢の系譜にあります。伊能忠敬の全国測量にしても、全図そのものはシーボルト事件につながる禁制品でしたが幕府は測量の事実は民衆とも共有する姿勢でした。それが愛国心の涵養になることは御政道をになうものならば気づいてなければおかしいと思います。
であればその次の仕事が「おらが国史」となっていくのは必然でしょう。万葉集から定家までという国史は大変魅力的な素材でした。しかし100人では冗長すぎます。「国史」にはストーリーが大切だからです。
それに軍記物語などとは違い、「百人一首」に流れているのは「歴史は繰り返し」という哲学です。一番良い例が27枚目と1枚目の対絵で、和歌における重要な概念「返し」を提示してあります。
27枚目は終わりであると同時に、初発でもあるのです。
古歌の道がおわって、近代秀歌の道がはじまり、そして続いていくのです。
藤原摂関家がほろびても源氏の世(徳川も源氏系)が始まり、「おらが国」はますます繁栄していくのです。
時代は喜多川歌麿が失意のうちに市場からさり、幕府の守旧派によって錦絵市場全体が委縮していたのです。版元としては幕閣に対して「絵画メディア」の政治的有用性をアピールする必要があったはずです。国土図だけでなく歴史を絵画にすることで徳川幕府万葉集以来の正統な王権であることをアッピールするという企画はそれなりに魅力のあるものだったはずです。ただ国史百人一首と同じく流派によって激しい対立があったので、あからさまな表現は避けなければならなかった。そこで「合わせ絵」という方法が用いられ、そこに絵解きの楽しみも加わった魅力つけが行われたと考えます。

27枚目  来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに焼くや藻塩の 身もこがれつつ  定家
1枚目 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ  天智天皇
合わせ絵;27枚目を1枚目へと返す「つつ」つながり


なお、、『日本美術全集15;小学館』にはシリーズ「百人一首姥がゑとき」は全く取り上げられていない。とても残念なことだ。

百人一首抄(宗祇抄)から堀河院御時百首和歌へ

拙著『狂歌絵師北斎とよむ古事記万葉集』で参照してきた『百人一首抄(宗祇抄) 吉田幸一編 笠間書院(1969)』に対してほぼ50年ぶりに別系統の影印本が出たので比較してみた。
予想通り、両書の仮名遣いが異なる。というのは笠間書院のは印刷本だから江戸時代初期の用字の規範をふまえているはずだと考えたからである。例示すると以下

書名    元和寛永本古活字版(17世紀中期)    姉小路基綱筆 (1441〜1504)
出版物    吉田幸一編 1969 笠間書院    小川剛生編 2018年 三弥井書店
題名    小倉山    小椋山
冒頭    をくらやま    小倉山
2行目    ゑらひ    えらひ
3行目    おさめ    おさめ
3番      
5番    於く山    奥山
10番    これやこ能    古連やこの
25番    名にしおハ々    名にし於ハ々
26番    をくらやま    小倉山
99番    ひともをし    人も於し


上のような作業をしていくうちに序文(要約)をきちんと読んでみたくなり、webをのぞくと以下がpdfで入手できた。
翻刻百人一首抄」(応永3年(/1306年)奥付)注と索引を付す;1978
吉田究;大阪産業大学産業研究所所報第2号
http://www.osaka-sandai.ac.jp/file/rs/research/archive/2/02-13.pdf
な、なんと、定家は新古今集が、とくに後鳥羽院があとあとまで手を入れたことが不満で後堀川院のときの新勅撰(1374首)を手本としてこの百首をえらんだとある。この新勅撰和歌集鎌倉幕府への配慮で、「承久の乱」で流刑に処された後鳥羽院と順徳院の歌を除外しているというから、百人秀歌を髣髴させる。そして定家存命中は口伝にしておいたのはいろいろはばかりがあったからで、為家卿の時代になって流布するようになったとある。この理屈は新井白石が死後数年は記録を公開するなと遺言したとか、現代でも公文書の公開は後刻になるのだから当然といえる。

宗祇抄の序文にもどると、具体的には「十分のうち実六七分、花三四分たるべき」を理想としているという。文体から見て、これを記述しているのは定家自身ではないから、類書の註釈から「東常縁の考え」という蓋然性が高いが百人秀歌のような対句構成だけでなく、歌番連をもとにした内的連関を持つ百人一首の性質が「実」に相当すると考える事ができる。

ところが堀河院(1079-1107年)御時百首和歌堀というのが日文研のwebにあるのだが、6部建てで1601首ある。16人撰ということだから一人100首で最後に1首を加えたことになる。ところがこの数1600というのは上掲の拙著p185で取り出した「表32;万葉集古今和歌集新古今和歌集の歌数の一貫性」にでてくる新古今和歌集の全数1979のうちの基数1600に相当し、残余が379であるから360+19、あるいは19*19+18を導くことができ、六曜を強く示唆すると拙著では結論づけたが、1601との差は378(=27*7*2)だから数19の目はきえる。
堀河百首(堀河院御時百首和歌) 
(長治二年五月-長治三年三月)((1105年6月頃-1106年4月頃))
堀河百首 春  320首
堀河百首 夏  240首
堀河百首 秋  320首
堀河百首 冬  240首
堀河百首 恋  160首
堀河百首 雑  321首
合計       1601首    
堀河百首 異同歌 ー


こうなると百首で歌100であるべきなのか、101であるべきなのかの考え方も苦しくなる。そうなると百人秀歌の前に置かれてあるべき序文(要約)を是非とも閲覧したくなる。もしも序文(要約)が欠けていれば、単なる障子紙への散らし書きにすぎず編纂意図をもつ歌集とは認めがたいとなる。神奈川のopacでリクエストしたが、手元にくるのは来週になるだろうから週末の旅行明けに検討しよう。