京都二泊三日

 久しぶりに京都。初日は伏見稲荷東福寺。夜はホテルで平日ディナーなる総カロリーの半分はデザートと思われる、フランス料理のフルコース。味は良かった。二日目は近代美術館の藤田嗣治展。その後黒谷経由で修学院離宮へ。帰りは鍵善の定番をいただき夜は祇園のビストロへ。前回は気がつかなかったが伏見の最初の狐さんが加えているのは「鍵善紋」でした。三日目は桂離宮。その後大徳寺で精進料理をいただき、嵯峨野をぐるっとして京都駅へ。若いころの旅行はバス・テクシーだったが、今回はタクシーで回った。京都の運転手さんはよく「しゃべる」のでした。だからこちらに知識があると、それらが次々つながっていく。
 ●藤田の「客人(糸満)」では、正面に蒲葵の扇の形をした団扇を持つ女性が描かれている。縁取りがないので機能は団扇だが、形は団扇の概念には入らない。大きい乾いた蒲葵の葉を無造作に扇の形に切りそろえた、といった素朴な姿であった。当然たたむことはできないのだから形態上からは「扇」に分類することも不可である。だからこそ、吉野裕子氏の『扇』を読んできた私には団扇でも扇でもなく、でもどちらでもある蒲葵の葉が使われている場面を見れたのは、とてもうれしかった。
 ●祇園守紋に注意してみたが雷紋と桜紋しか目に入らなかった。鍵善良房の紋の方が近いかも。 
 ●桂離宮修学院離宮。どこの本にも書いていないが運転手さんの話をまとめると17世紀初期の徳川政権の京都(公家と寺院)の統制支配のためのムチの一方の飴玉であったことが伺われる。八条宮は秀吉の養子から戻ってきた経緯もあり家康とは親しかったが既に妻女があり、家康の孫娘との縁組が無理であったために後水尾天皇皇位をついで徳川と皇室は縁戚になった。それで幕府は八条宮家には金銭上の便宜をはかり、その結果「桂離宮」は贅を尽くすことが可能であった。後水尾天皇は結局紫衣事件で退位させられ、その後に建てたのが修学院離宮。当然財政的には幕府の援助があったのであろう。
 ●若いころ「桂離宮」の名を聞いたのはゴッホ神ならぬブルーノ・タウト神が褒めちぎったから「すばらしいんだ」というロジックによってであった。明治になっても公家にとって苦い思い出でもある京都の建築をすぐさま日本の象徴にしようという気にならなかったのも無理ないと思える。それよりも敗北の血と涙の混じらない西洋建築によって天皇の御代を寿ぐのに忙しかったところ、タウト神によって日光東照宮に比肩できることを教えられ、すぐさま「いただき」と飛びついた文化人たちがいたのであろう。
 ●だがこの二つの建物の資料的価値は計り知れないとおもう。幕府に対し鬱々としていた公家二人が幕府にわからないように、つまり「国家安康事件」を避けながら、数々の伝統メタファを埋め込んでいったと見ていくと一筋縄では読み解けない。
 ●今、一つだけあげると桂離宮の「青槙」と修学院離宮の「松並木」。いずれ読み解いてみたい。