ヤマタノオロチと龍

 未だ古事記の中に阿蘇山のイメージがぼやけていることに拘っている。高千穂の名が出てくるので、知っている人はわかっていたのであろうが、大事なら大事ともっとはっきり描いてもいいはずだ。なぜ?
 手がかりをヤマトノオロチに求めるとすれば、阿蘇一体の噴火口がオロチの頭になる。そうだとすれば二番目のヒントは〈えつ越こし腰>と考えてもいいのかもしれない。というのはこれも学校で刷り込まれたことであるが、(はじめての日本地図=伊能忠敬)というイメージが強いが、北極星春分秋分の概念があって日本中を歩きまわっていた行者集団はかなり正確な日本列島のイメージを数千年前に描きえていたと考えた方が合理的なのでないかと思うのである。地図が残っていなかったということと地図を人々が知らなかったこととは別次元のことと考えるのである。
  とすれば現在学校で習う「中央地溝帯」の概念をすでに持っていたとしても不思議ではない。さらにいえば古代の方が日本列島の造山活動は活発だったはずだし、その記憶を「語り部」によって口承正史として伝承されていたとすれば日本列島を深くくびれた蛇の姿として描いていた歴史が強烈な印象を人々に植え付けていた可能性が高い。まとめると阿蘇が八つの頭、瀬戸内海、琵琶湖をとおり現在の日本海沿岸が〈腰こし越〉で、巨大な蛇は丑寅の方向へ限りなく延びて再び太平洋側に尾を戻して「尾州」で終わる。
  これに対する古事記の新しい列島像はスメラミコトによって統合されるべき日本地溝帯によって分断された二つの国土。もはや蛇を崇拝する東夷ではなくである。ただし人民教化の上からは大蛇にかわる龍神のイメージをなお必要としていた。だから「尾州」をそのままに地溝帯の北端を「かが=ホオズキのような二つの赤目」と位置づけた。蛇から龍とは、長くて大きいだけの物量崇拝から、内部にひそむエネルギー、つまり「見えない力」が崇拝の対象に変わったことをも意味するかも知れない。だが当時の支配層の人々でさえ、このような転換を自家ロウチュウのモノと出来た人は少なかったであろう。
  さらに、これはまた「東西」軸から「子午軸」重視への転換を意味する。つまり「トコロ観」も変わった。「日出る国」のような相対的な自己認識から地軸に拠ってたつ絶対的自我認識への試みといえようか。そしてこの天武・持統の努力は天智朝による平安遷都により軌道修正がされたという井沢史観によって、日本の歴史のモヤモヤがひとつ晴れるのではないかと感じた。つまり子午軸は平安期にはいったん日本思想史の表層から消えたのではないかと私は感じているということである。なぜなら「源氏物語」の六条御所はあきらかに「戌亥・丑寅・辰巳・未申」の具象物であって、子午軸は直接人々の意識に上っていないように感じられるからである。それとともに現在「風水」などと気楽に扱われているが、戦前までの「方向見」というかなり煩雑な社会儀式の伝統につながっていく「方位のわかりにくさ」を生み出してきたのではないだろうか。
■[口承正史]