『古事記・上巻』の構造 (その四)

  では「ユングという方法」の妥当性を私はどのように考えるのだろうか。ユングベルグソン同様、翻訳文を読んでもよくわからなかった。唯一の記憶は日野啓三さんの講演で語られた「日の出を待つ猿」の話はどうも無意識という方法を完成したユングに祖があるらしいということだった。だが「ユング+無意識+日の出を待つ猿」が私の中でつながったのはツイこの間のことだ。それは「已然形」を介してであった。学校文法と理科教育によって、「時間」と聞くと、パブロフの犬よろしく「過去、現在、未来」と反応するように訓育されたままではとても「無意識という方法」はあつかえない。
   「已然・未然」の対立こそが無意識の中に画然として流れている時間なのだ。「過去・現在・未来」という用語を使ったとたん、時間は意識の中を流れてしまう。かといって「時間」がなければ、それは「無意識」ですらなく「衝動とカオス」の世界でしかない。このことを踏まえて、デカルトは「時間ではなく、順番 (order/older) だけに注力せよ」と、我々にアドバイスしてくれている。
  ではいよいよ、「音韻イメージという方法」と「順番という方法」の二つを組み合わせて再度、古事記の上巻を分析しなおしてみよう。前回の結果は。

[初発のミ柱] [天之御中主神] [神産巣日神] [高御産巣日神]
[始発のミ柱] [天之常立] [イザナ御・カビ] [イザナ貴”・アシ]
[三貴神] [アマテラス] [ツクヨ御] [スサノヲ]
[三貴子] [ホデリ(海)] [ホオり(山)] [ホスセリ]

  今まで「イザナミ」「イザナギ」の「ミ・ギ」対立のイメージがわからなかったが、 [天之御中主神][神産巣日神][高御産巣日神]を「み中」「カみ」「高み」に還元することでやっとイメージが浮かんできた。これは小学校二年の算数を教えている時に〈位階・くらい・位置〉とおかないと算数の〈位取り〉の意味がわからなくなることに気がついてから、考え始めたのだけど、かつては〈接尾辞み〉がもっと使われていたはずなのである。そうすると音声学の初期カリキュラムに出てくる〈三位一体〉の読みも〈イ→ミ〉という解釈はおかしいことになる。三番目の〈三位サンイ〉と三つの尊い存在〈三位サンミ〉は正唱法でこそきっちり区別しておく必要があるのである。このような概念語がなまった音で伝わると考える方が常識を逸脱しているのである。それと〈逆接による造語〉というものが普及していれば〈接尾辞⇔接頭辞〉はよくみられることになる。今一〈み中・中み〉の音韻イメージがはっきりしないが〈御・接辞〉と仮構してもいいように感じた。
『漢字源』では「御=杵でつついて平たく柔らかにすること」とある。だったら〈御・行為/現象〉となる。ここで〈杵〉を男性metonymy に当てれば、〈臼〉が女性metonymy にということになるはずだ。だが、ここで一度に新しい音韻を二つ、導入することを古事記の作者達(天皇もふくめた関連者)は好まなかった。そして初発と始発の神々を音韻〈み〉で結びつけることを選択した。意味的(metaphorica)には「イザナ凹」と「イザナ凸」だが、それでは露骨すぎるので、〈美・岐〉の二字をもってきたのであろう。そして〈美・み・御〉とおき、初発の神々は両性具有であることをはっきりさせた。一方男性metonymy の方は「岐・き・貴〉とおくことで人間界とのつながりを独占した。
  但し神の名そのものには何故か<キ>は用いられず、新しい音韻として舌先音〈t/s〉が使われ、漢字〈貴>は、「ト書き」で用いられている。漢字で隠蔽しても、音韻<k>には女性metonymy が強く固着していたので新しい音韻が求められたのは当然だ。舌先音〈t/s〉はやがて鼻音化により〈ぬし主〉という語へつらなる。ではこの舌先鼻音[n]がイザナギイザナミの〈ナ〉とどのような繋がりで当時の人々に聞き取られたのかが次の課題になる。
  一方で、〈漢字・力〉も「田の力=男」に還元された。そして音韻〈カ〉もまた〈漢字・神〉によって隠蔽され、〈力の源泉たる母〉という語彙は抹消され、音韻〈カミ〉の意味も21世紀の世のいまだもって、学者の議論のオモチャと成り果てている。つまり日本語では分けのわからない存在になり果てて行くしかなかったのだ。そう、その後の1000年有余の政によって〈母の腹は借り物〉にまで貶められていく。その象徴が「万世一系」と「丙午年」の出生率騒動。
   いずれにせよ、このときから女性metonymyは〈漢字・力〉からも音韻〈カ〉からも遠ざけられ、〈み美=対象object〉に還元されたのだ。

  難しかったのは〈ホオリ・山彦〉だ。「ホスセリ」は音韻〈スセ〉のイメージが今一はっきりしないのだが、音韻からは、これは「スサノヲ」に付けるしかない。「ホデリ」は子韻[t/d]を「アマテラス」と共有するし、海彦は勝者で、天皇家の祖になるのだから「アマテラス」に付ければよく、意味は「何かが出てくる」となる。後は、「ツクヨミ」しか残っていなかったわけだ。

  結果はけっこうキレイにまとまった。ただし「ウマシアシカビ」を分解する必要があったけど。

[神産巣日神] [カビ] [イザナミ] [ツクヨミ] [ホオリ]
[非向日性] [考える黴・噛む黴] [単為生殖] [太陰暦] [神降り]
[高御産巣日神] [ウマシ] [イザナギ] [スサノヲ] [ホスセリ]
[非向地性] [狩用具・農具] [両性生殖] [力仕事] [スル・セル]
[天之御中主神] [アシ] [天之常立] [アマテラス] [ホデリ]
[ある・yます] [考える葦・受粉する葦] [永久・出立] [太陽暦] [日の出]


  なお、以下に (その初) で書いたタカムスビとツキヨミの関係を引用しておく。気持ちは全面訂正して削除したい、ということである。後追いの釈明をすると「重力概念」を過大に評価していたということである。後世の概念で先世の人の気持ちを説明する間違いを犯していたのである。
  以下引用 [最後に、「度量衡概念の推移」について考えてきた私にとっては「タカムスビ」と「ツキヨミ」の関係が一番面白い。現在の私達は月とは無縁の生活を送っているからわからないが、昔の人にとっては「満月=大潮」だったのだ。つまり「水が隆起する」ということが月の特質の第一だったのだ。「隆起する」とは「伸張する」であり、「沈潜する」の反対だ。「アマ・オモ」という母音屈折対〈お・あ〉ルールを開発した当時の先端知識人にとっては「アマ・オモ重」とは異なるの metonymy を意味したのは当然だ。だから「アマ・太陽」と定めるなら「タカ・月」を明確にする必要があったのである。だがこの認識は当時の大衆(一般とはいわないが宮廷人の多く)には共有されていなかったようで、古事記ではさしたる逸話もなく終わっている。]