『ドグマ人類学総説』

  これも図書館の棚で眼に飛び込んできた本。題名の効果。こういうジャンルの本は久しぶり。翻訳文ではあるが、腑分けの対象が現在だから、とっつきやすい。主題はデカルトの「人が信じていると思っていることと、信じていることは違う」。もちろん、こういう本の様式の常として、決してデカルトの名前はでてこない。なぜならデカルト自身が『方法について』の中で、自身の主張は「アリストテレスの再解釈である」と明言しているからである。だからこの本は「アリストテレス」と、その正統な継承者である「ローマ法」から説き起こされる。
  著者の立場は「保守主義」。その真骨頂は「子ども権利条約」に対する簡潔な批判によく現れている。保守主義といえば日本人では西部邁が想起されるが、そこは翻訳文ゆえに、欠点を摘出するのはむずかしい。そこが日本人が書いた日本語と翻訳文の大きな違いだとおもう。西部の書いたものは「論理の飛躍」や「実例の強引な解釈」が良く見える。だから「神」にはなりにくい。それゆえ読み手が賢くなる確率が高い。だが翻訳文によって、読み手が賢くなる確率はかなり低い。それゆえに「異国の神々を祭るビジネス」は成功しやすい。
   今回ここで取り上げるのは久しぶりに「エディプス」という語に出会い、ユングの師であるフロイトのことを思い出したからだ。それに古事記の中で「男と女の子どもに対する完全なる非対称」について考えたばかりだったからだ。それで西洋的というかフロイト以来の「エディプス」に対する日本人の違和感はどこから来るのだろう?という発想に引き込まれていったわけだ。
  キリスト教では「父」とは「全能の唯一神」だから血肉を受けた「父」とは原理的にことなる。そして「聖母マリア」という装置によって「父」からの逃避の回路も用意されている。もちろん近代になって「血統」だの「民族」などという、まさに著者のいう生物人類学の時代には「父=実の父」というドグマが強まり、その申し子が「エディプス」となるのだろう。そしてその後に来た20世紀の「社会人類学」を止揚するのモノとして「ドグマ人類学」が提起されている、というのが監訳者の言である。
  では日本人はどういう装置によってこの問題に対処してきたのだろう。
   まず高貴な家では徹底的に母なるものの分解が行われた。生物人類学の眼でみると、それは徹底的ともいうべきもので「出生の母」と「乳母」と「家父長の正夫人」へと分解された。これにより男女の非対称を解消しようとしたというのはなかなかに壮大な実験ではあった。生物人類学からみれば途方もなく馬鹿げた実験だったとなる。先の天皇のなされたことは「生母」と「正夫人」の一致であった。そして現皇后の試みは「生母」と「乳母」の一致であった。
    それは、血統人類学から実感人類学へ、という歩みであった。。
   ところが庶民のほうは18世紀には血統人類学をとっくに卒業していたのだ。。儒教の影響で「妾制度」が推奨されなくなったこともあるが、それは人々の蒙が啓かれていったことと軌を一にしてしていなければ機能しなかったはずだ。私の実家でいえば父は母方の実家の養子に入っている。女の子しかいなかった大祖父は婿養子よりはと、最初の男の子を養子にする約束で末娘を嫁に出しているわけだ。江戸時代にも、こういう事例はあったようだ。
  これが大阪の商家ともなると、駄目息子に継がせるよりは優秀な番頭を養子にすることも早い時機から行われていたようである。 つまり、日本の庶民の方はまさに血統人類学から生業人類学へとさっさと移行してしまっていた。

   と、まあこの辺まではNHK大河ドラマをみていれば、到達できる認識である。だが日本の歴史にはもう一つ、恐ろしい装置が組みこまれているのである。これをきちんと分析しておくと、ドグマ人類学を生きなければならない日本人には役に立つはずだ。
  それは「お前は私の子ではない。橋の下でひろってきたんだよ」と母親に言われた経験をもつ日本人が非常に多い、という事実である。若い頃、この話をしながら皆が言ったことは「こんな残酷なこと自分の子には言いたくない」ということだった。だが、多分そういいながら、多くの日本の庶民の母親がこいう語りかけを子どもにしてきたということである。
  ■参考書 『お前はうちの子ではない、橋の下から拾って来た子だ』著者;武内徹 

   つまり西洋の子どもはサンタクロース〈贈与の父)の実在を信じる、信じないというのが一つの通過儀礼だとすれば、日本の子どもは「実の母ではない可能性は0ではない」ということ刷り込まれるということである。これにより実は「血のつながりもまたドグマである」ことを既に19世紀には多くの日本人が深層意識において刷り込まれてきているということになる。現在の日本人は世界の中で養子縁組に消極的な国民であるというのも事実ならば、広範に子ども達が「実の子でないかもしれない可能性」を刷り込まれてきた民族でもあるということである。
  このことを西洋風語彙を使って書きなおすと、公理とその流通の問題となる。

[公理] ;全ての子には因となる一対の男女が存在する
[適用] ;この子の因は、この男とこの女だ

  ところが現実に社会に流通する形態は以下の四つなのだ。

[実感人類学] ;この子の因はこの母だ
[血統人類学] ;この子の因はこの俺だ
[生業人類学] ;この私の現在の生存の因はこの男女だ
[身体人類学] ;この私の因はこの男女だ

  
  とどのつまり、「エディプス」とは身体人類学から立ち上る無意識の叫びということになる。そこがわかればここでドグマ人類学と言われているものが身体人類学の別名であり、著者が想定している着地点が生業人類学であることがおおよそ推定される。