「メガネをかけた人」;複文

    以前、「メガネをかけた人」の記事で、上記の句を考察した時には以下の両単文を中心に行った。
  A1)あそこの、めがねをかけた人です。
  A2)あそこの、めがねをかけている人です。
    最近複文中の動詞の終止形について考察を行ったので、「〜した」「〜している」について再考した。前回は以下のような文型にまで展開した。
・終止形対;話者の判断
・已然形対;繰り返し得られた情報
・てーた文;特定の人物によって確認済みの情報
・たーた文;話者の体験報告

    だが、ここに「〜している」を加えると日本語の成り立ちについて、また違った見方が可能になる。すなわち、以下。
(1)終止形対;話者の判断
   ・この道をいくと、そこには、公園がある。
   ・この道をいくと、そこは、もう公園である。
(2)已然形対;繰り返し得られた情報
   ・この道をいけば、公園を(/が)見ることができる。
   ・この道をいけば、公園を(/が)見られる。
(2’)已然形ー終止形る
   ・この道をいけば、公園が見つかる。
   ・この道をいけば、公園がある。
   ×この道をいけば、公園が見つかっている。
(2'')已然形ー終止形た
   ・この道をいけば、公園が見つかった。(反実仮定法)
   ・この道をいけば、公園が見つかっていた。(反実仮定法)
(3)てーて文対;特定の人物によって確認済みの情報
   ・この道をいって、公園を見つけている。
   ・この道をいって、公園を見つけていた。
(3’)て形ー終止形る
   ・この道をいって、公園を見つける。
   ×この道をいって、公園が見つかる。
(3'')て形ー終止形た
   ・この道をいって、公園を見つけた。
(4)たーた対文;話者の体験報告
   ・この道をいった。公園があった。
   ・この道をいった。公園を見つけた。
   ×公園があった。この道をいった。
   ×公園を見つけた。この道をいった。
   ・公園があった。ソの道をいった。
   ・公園を見つけた。ソの道をいった。
(4’)たらーた文;話者の体験報告
   ・この道をいったら、公園がある。
   ・この道をいったら、公園があった。
   ・この道をいったら、公園が見つかる。
   ・この道をいったら、公園が見つかった。
   ×この道をいったら、公園が見つかっている。
   ・この道をいったら、公園が見つかっていた。(反実仮定法)
(5)てたら+て文;話者の体験報告
   ・この道をいってたら、公園が見つかっていた。(反実仮定法)

例文型を見てもらえば、私に言いたかったことは分かっていただけとおもうが、「て形」と「終止形」は音声学で言う「異音関係」にあるし、言語相対主義でいう排除的選択関係にある。書き言葉では表面化しないとしても「話し言葉」における対立関係を「終止形中心の動詞史観」はこれを隠蔽しているということである。
   つぎに問題にすべきは最後の「反実仮定法」の文型である。この文法用語を私は学校の英語で習った。だから日本語にはこの形式がなくて、それゆえ日本人の学生は苦労しなければならないのだと思い込んで生きてきた。日本語教育の勉強を始めて自分で文型展開して、一番苦労したのが、この形式だった。自分で展開するとこの文型がしばしば出てきてしまうのだった。だが、初級の教科書では扱っていないのだった。
   さらに「〜て」形を中心に考えると(2'')のように,この段階で「反実仮定法」が出現する。これも〈動詞終止形中心史観〉では見落とされてしまいがちである。
   さらに、「動詞のた形+ら」は口語だから扱っていないという要素も考える必要がある。つまり「重たい」同様、これは卑語の扱いなのである。これは日本人の学習者にとっても日本語学習者にとっても放置しておくべきではないと考える。

■卑語〈反実仮定法〉


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