擬逆語序〈已然・然聢〉と〈おと音ね〉と

   ようやく宣長の『真暦考』を読み始めた。そこですぐ気がついたのが〈然〉の多用。以下。
・然るべきわざなり
・然定めつる物ならむ
・然有しこと
・然あり来ぬる事
・かならず 然して定むる ならいなり しかば、
・仮名書には おほく 然 書(け)り
    気になって辞書を繰ると国字〈聢しか〉が出てきた。とすると、かつては〈聢・定・掟〉というイメージが人々にとって大事だったことになる。そして字形からみると耳に関することが〈確たしか・しか聢〉という認識評価におおいに関係があって、それを表現したいと人々が考えて、こういう国字を作ったのではないかと考えることができる。用例を挙げれば以下。
・しかと、うけたまわります。
・たしかに、うけたまわりました。
・たしかに、見受けました。
・しかと、見定めてございます
・しっかり、見て来い。しっかり、聞いて来い。しっかり、しろ。
・しかしながら、おそれながら、はばかりながら、
    そうであれば、それは古文で習った推量辞〈なり〉〈めり〉に結びつけることが出来なければならない。だが、とすぐに続くのは。何故、〈目+定〉という字がないのか。宣長は何故〈然〉をここでは用いているのか。
     そこでまたまた登場するのが『枕草子;一段』。「風のおと、虫のね」ときっちり中学生に暗唱させている、あれである。この段が暗示するのは、ある時期までの日本語は触覚認識と聴覚認識とをきっちり分けて考えていたということである。風の存在は触覚で、虫の存在は聴覚で認識するという生活そのものを音韻レベルで共有していたことになる。だが、現在の日本語語彙も文法体系も、その辺はあいまいである。例は以下。
〈虫のね〉→〈な行あ段〉→〈なり〉
〈風のおと〉→〈あ行あ段〉→〈あり〉
〈風のおと〉→〈た行た段〉→〈たり〉
〈?〉→〈ま行え段〉→〈めり〉
     私が既存の日本語研究書にイラつくのはこういう現象に出会ったときなのだ。〈なり〉と〈めり〉をいきなり対にしないでよ、って叫びたくなる。〈めり〉は〈けり〉〈せり〉と組を作るんではないの?〈あり〉と〈たり〉が対で、〈なり〉は〈かり〉と対になるべきではないの?って叫びたくなる。
    ついでに、もう二つほどイラつく例を思い出しておく。日本語にとって〈うち・そと〉の概念が重要ですというあれである。『菊と刀』に、「どんな未開部族でも集団の内外認識は重要である」とはっきり書いてある。だから科学研究書であるためには、日本の中のいくつかの集団間での内外概念の差異が社会の存続にとって脅威になるほど重要な点は何かを明らかにしなければならないのである。そうであれば「日本語にとって」という枕詞は存在しえない。私は日本語の成り立ちを考えていく時に、安直に〈うち・そと〉という記号を当てはめること自体が何か重要な事柄を隠してしまっているように感じている。一旦、〈うち・あっち〉〈そと・こと〉といった対語の分析をしっかりやるべきではないかと考えている。
    二番目は敬語論、文脈論。これも日本語は敬語を重視する文脈依存の言語だという規定が多くの学者に好まれている。だが、反対に多く未開部族だって敬語概念は重要なことがわかっている、文脈に依存しない言語も存在しない。そうであるならば、日本語は日本内の特に階層や場面によってどのように敬語が運用され、それが日本社会の統合にどのようメリット・デメリットをもたらしているのか、というアウトプットでなければ公的資金に支えられる価値はない。文脈問題だってそうだ。それが、日本の若い人が国際社会に出て行くのにどのようなメリット・デメリットをもたらしていて、そこからくる困難を克服するために日本社会がどのような戦略をとるべきか、という提言になっていなければ公的資金の投入に値しない。違いを言い立てるのは五歳の子供でもできることだ。大事なのはその違いがどのような共通性から来ているかを導くことだ。それによって、あるいはそれによってのみ、〈大事・小事〉の的確な判別は可能になる。
本論にもどると、ここでさらに糸川英夫氏の提唱したボーン・コンダクションが登場する。ベルグソンは重さについて皮膚感覚と筋肉努力感の二項を取り上げているが、これらは聴覚とは無縁な心理作用で、むしろボーン・コンダクションのほうが聴覚に直結する感覚なのである。このような概念が日本人から出てきたことが必然なのか、偶然なのかはさておき、やはり聴覚に対して独特の感覚が日本語の古層あるように思う。私がここで古層と呼んだのは、私自身には直覚できなかったからだ。しかし漢字の顔の裏にある音韻イメージに注意を払ってようやくボーン・コンダクションと日本語の浅からぬ因縁を取り出すことが出来た。すなわち、以下。
・右キき
・キがキく
・ナイフがよくキれる
・キに入る
・恩にキる
・オトにキく
・ネをキく
     今の今まで、考えたこともなかったわけなのだけど、〈右利き〉というのは〈右手〉で何か事をするわけだから〈右手の骨〉で感触を確かめながら作業していくことになる。現在の〈手ごたえ〉というのも、私は〈皮膚感覚〉の問題だと思い込んできたのだが、そうではなく〈手の当たった感覚〉というのは第一に〈骨の感触〉であった可能性も出てくる。そうすると遠くの方で何かが移動すれば、それは足の骨を通して地響きとして感じられるわけだから〈音に聞く〉というのもボーン・コンダクションが第一だった。
     それが後の宮廷人の様式の中で骨感触が失われ、とりわけ書記日本語でそういう聴覚認識への還元が完成したと考えることも出来る。だからといっ実際に働く兵士や農民にまで、そのような、アクセント用語で言う〈平板化〉がおきた、とは考えられない。とすれば日本語はこの段階で〈書記日本語〉と〈話し言葉〉とに単純に分裂したのではなく、宮廷人の〈鼓膜振動感覚優位日本語〉と実務者の〈骨振動感覚優位日本語〉という認識体系の分裂と大きく重なる分裂だっとことに注意しておくべきだとなる。
    とここまで分析してきたが、これ以上は今の段階で理路整然と展開できない。だが、〈已然形〉概念はどこかで手術が必要なことは間違いないし、宣長の〈然〉と国字の〈聢〉も、このまま忘れてしまうのはもったいないので、擬逆語序〈已然・然聢〉としてキーワードに組み込んでみた。その評価は今後の課題である。
 もう一つ、思い出しておきたいのが慣用句〈骨身にしみる〉。これは単なる誇張表現だと思い込んできたのだが、そうではなく〈骨は感覚器〉という認識から来ているのかもしれない。とすればサ行音韻のイメージをもっとはっきりさせることが出来る。芭蕉俳句は〈わび・さび〉とかと、西行とあんまり変わらないキーワードでくくられることも多いのだけど、むしろ〈しをり〉とか〈かるみ〉とかの概念を当てはめている人もいるらしい。彼らの中にあったサ行音韻のイメージはどのようなものだったのだろう。


■清濁韻対〈しか聢・直じか〉
■重畳語彙〈じきじき〉
■擬似重畳〈しかじか〉
逆語序対〈しか・かし〉
■回語〈しかし〉
■漢字パズル〈聢・定・掟〉〈これ是ゼイ〉〈shi是・之zhi-〉
■〈さだか・たしか〉〈さだめる・たしかめる〉

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