〈のる〉〈のれ〉

     11月7日は、朝7時からNHK教育テレビで「からだであそぼう」というのを放送していて、題字テーマが「のる」だった。最初と最後にこの題字が映った。
(1)最初のは静止画と一緒に
(2)最後のはイッケン、日本語とは聞こえなかった、音韻掛け声「ノーレ」と一緒に
     (1)をみて「ちょっと待てよ」と思い、最後をみて、NHKも努力しているのが分かった。大野晋氏が古語辞典において終止形ではなく連体形という已然形同様わけのわかんない形を見出し語にしたという話は聞いている。確かに書記日本語から発想すると高い見識である。だが、動画と共にある話し言葉日本語から考えると疑問符がつく。当然已然形の方が古層にあると考えるからである。
      この番組は、この問題を考えるのに適切な例を提示している。そして、日本語の場合、静止画と共に流せる行為動詞のテロップは三つである。
(3)のろうとしている(主体は客体と一体になっていない。体の一部は接触しているかもしれない)
(4)のっている(主体と客体とは物理的上下関係にある)
(5)のってしまっている(主体と客体とは物理的上下関係で安定している)
     他に関連する語形は以下のようなものであろうが、これらは静止画と組み合わせると齟齬が生じる。このことに私は子供向けの英語教育番組で気づいた。つまり英語でも〈inifinit〉つまり、〈to+ride〉や〈to+get+on〉やは静止画のテロップとしては齟齬がでる。むしろ〈be on something〉の方が静止画のテロップとしては齟齬がすくない。
(6)のる
(7)のった
(8)のってしまう
(9)のってしまった
   結局、静止画と齟齬を生じない日本語の行為動詞の語形は〈ている〉なのである。当然幼児においてもこれは変わらないと考えることができる。しかも重要なことは、これらの内容は発声を伴うわけではないということである。と、ここまで考えてきて、ようやく〈絵と共にある動詞〉の主語は客体だということに気がつく。では主語が主体の場合はどうなるのだろう。実は(6)〜(9)が基本形なのである。とはいっても、このように〈主語と主体が一致している〉という状況下ではもっと頻度の高い語形が存在する。以下。
(10) のりたい
(11)のることが出来るかな(こわくないかな)
(12)のってもいいかな(おこられないかな)
(13)のることが出来る(客体と自分との関係の判断)
(14)のってもいい(客体と自分とを取り巻く世間との関係判断)
(15)のる/のらない (意思判断)
(17)のることが出来た(怖いことはなかった)
(18)のってしまった(もう、後戻りできない。怒られるかもしれない)
   上のような多様な概念を表現する日本語ではあるが、これらはすべて発声語に限られるわけではない。独り語でも十分展開される必然性をもつ。では、発声を必須とする語形はどれであろうか。上の展開例には存在しない。なぜならば、発声の原初は〈長からの命令〉であり、その後長い歴史を通して鸚鵡返しの〈皆による応答〉が獲得されてきたと考えることが合理的だからである。とすれば命令形の原型は先に整理した三つの形になぞらえていけば下である。
*祖母・母親;オのり。
*男性教師;のれ。
*女性教師;のるコト。
     先に、この三つの文型を取り上げた時に、私の頭の中にあったのはこの順番で日本語が発達してきたのではないかという仮説だった。つまり〈連用形→已然形→連体形〉と。今でもその考えは変わらないのだけど、ここに〈発声〉と〈発語〉の峻別という操作を入れると、やはり発声語の原初は〈已然形〉という結論になる。それは応答形の多様性が已然形によって担保されているからである。すなわち、以下。
(19)のれ!←即行動⇔頭をたれての沈黙
(20)のれ!←のれる!(出来る、やります)⇔のれん!(出来ない。いやだ。)
     それと、元気付けのうなり声よりも、本当に大事なのは、〈報告語〉。これはたとえ奴婢や奴隷であっても発声が許されたはずである。さらに、本当に困難だったとあとの報告には集団としての共有が必要になるから、、奨励されていったはずである。それは現在では、〈祝詞〉〈祝言〉として民を代表する〈巫女・覡〉が唱えることになっているが、それは功労者への特別のメタファが組み込まれていたはずである。それは現在の文法用語で言えば〈可能形過去〉である。
(21)のれ!←のれた(報告)
    ということで非常に大雑把ではあるけど、応答語の発声語の原初は「已然形」であったと考えることが合理的だとは思うのであるが、連用形も捨てがたい。理由の第一は女系集団から男系集団へと歴史的に推移してきたはずだからである。それと子供の言語習得は母親からが第一に来るからである。
    ここからは、さらに突飛な思考になってしまうのだが、人類の祖先が本格的な発声語を獲得したのは男系社会になってからで、そこでは生産の共同作業というような戦後の平和教育が好んだ主題よりは、戦争による集団間の淘汰合戦が大きなテーマになっていた社会であろう。だが、さらに社会が高度化していったときに、それまで流行おくれだった現在「連用形」として知られる「祖母・母親の命令」形式が再生されて新しく語彙化され、〈已然・連用〉が〈困難な命令・許可の命令〉という対概念として定着した時期があった。
     それまでも家族ごとに上で展開した18までの文例は概念としては使われていたであろうが、家族ごとに音韻が違っていれば社会的なコミニュケーションとしては役に立たない。だから連用形は已然系と対立する音韻として人工的に導入されたと考えるのが、合理的である。これを別の角度から言い換えるなら、それまでは現在の我々にとって〈イ・エのあいまい音〉としか聞こえなかったであろう何らかの音韻が〈イ・エ〉の対立音韻として当該社会の少なくとも支配層に共有化されたということになる。
     その後に〈連用→連体〉という形式が生じ、動詞の名詞化、つまり〈用言・体言〉という対形式による〈現象・存在〉の対概念を我々の祖先は獲得したと考えていくことができるのではないか。そしてこの段階にいたって社会は平和ということを主要なテーマとして選びうるだけの成熟を達成し、敗者を皆殺しや奴隷にするだけでなく間接統治というさらに効率的な支配システムを現出したと考えることができる。それは、概念として確立した時期は仏陀や孔丘の時代であろう。もちろんその後もジェノサイドや奴隷狩りは皆無ではない。だが、それらが前提の社会ではなくなっている。
  用言と体言が未分明だった時代の化石が〈さくら、さく〉〈かい、かく〉〈広い・尋・広げる〉などや onomatopoeia であろう。そして最後に人工的に導入された「う段」から「あ段」「お段」が分化してさらに微妙な概念を音声的に分別するようになっている。ここで、一応のまとめをすると、「困難の命令」「許可」「それ以外」の三つの概念が日本語分節音韻体系の古層に存在するということになる。
    さて、最後にテレビの画面に戻っておくと、画面の中ではお兄さんと何人かの幼児たちが出てきたのだけど、お兄さんは今まで私が挙げなかった命令文を使っていた。
*アネ・アニ;のってミー
*アネ・アニ;のってみるか。
    これは今までの例文と対比すると、「怖くても、やってみるか」「出来なくても怒らないよ」を含意する命令形ということになる。


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