悲恋の型

   「ロミオとジュリエット」の原型と銘打った、「トリスタンとイゾルデ」のリドリー・スコット監督が演出した映画のDVDを見た。この物語は12世紀中ごろにフランス語を通してヨーロッパに広まったアイルランド伝説をもとにした悲劇。
      内容を要約すると、叔父であるコンラッド王マークに育てられたトリスタンがイングランドの盟主としてマークをおしたてていく為に行なったアイルランド王との政略結婚の姫イゾルデが、実はトリスタンのかつての命の恩人でかつ想い人であったことから生まれた悲劇。結局政略結婚は失敗し、結婚式の次の満月の前に、アイルランド王は人質である自分の娘の命などなんとも思わずに夜襲をかけてくる。ぎりぎりのところでそれを救って死んでいくのがトリスタン。その後マーク王は分裂続きだったイングランドをまとめていくことになる。
    つまり、世間に流通している「トリスタンとイゾルデ」に対抗する、イングランド中心史観版である。
    まず、映像として興味深かったのは最初に死んでしまったと思われて行われたトリスタンの葬式。どこまで制度科学を反映しているのかは不明であるが、亡骸を船に乗せ薪で覆って、それに火をつけて沖へと流していった。つまり「火葬+水葬」なのである。ということは現代ヨーロッパにおける土葬はキリスト教によってもたらされたと考えることができる。とすればわが国における火葬の始まりも中国化の影響とされているが、もっと古層に火葬の習俗がなかったとは言えなくなる。
     次にはこの頃の戦争の目的が捕虜の獲得にあったことだ。すなわち女性の家畜化。これは人質でもある。これにより男たちは復讐をひるむようになる。女たちが殺されるよりは、生き延びてほしいと考える臆病な考え方も当然出てくるからである。
    セリフで日本人にとって印象深いのは、両人の会話。

ゾルデ;あなたの忠義など、私には関係ない。私をどこか遠くへ連れていって。
トリスタン;忠義のいらない国などどこにもないよ。

    上のセリフから、子供の恋愛ごっご「ロミオとジュリエット」を想起するのは、私には無理だ。私ならば古事記の「サホヒメ」を第一に想起する。そこでわが国の神話の構造がイングランドに対して、男女逆転型であることがすぐ分かる。

トリスタン;意地を通せば切ない。情に流されれば行き場がない。
サホヒメ;孝ならんと欲すれば切ない。情に流されれば子が哀しい。

    そして最後のまとめの言葉も興味深い。あくまでトリスタンとイゾルデは一線を越えなかったことが強調される。そうでないとその後イングランド王となっていくマーク王の血筋に傷がつくからである。映画では直接ふれられていなかったが、尼になったとはいわれなかったから、多分イゾルデはマーク王の子供を生み、国母となっていったはずである。
    一方、サホヒメの生んだ皇子は、紆余曲折はあっても、皇子として敵の城から救出される。つまりここで大事なのは「正妃」なのである。「正妃の子は嫡出児」なのである。このことをさらに抽象化する、つまり図式化すると以下になる。
    
トリスタン;残るのは名誉。自己満足。
ゾルデ姫;残るのは思い出。Tomorrow is another day.


サホヒメ;残るのは分身。皇子。
天  皇;残るのは我が子。物言わぬ子。

     結局、勇者を祀るのはイングランドでは敵国からお輿入れしたイゾルデ姫であり、わが国では天皇自らである。そしてpaternalism体制そのものはイングランドでは王が、わが国では次の正妃の皇子がついでいく。
  以上は、あくまで〈ちまた〉に生きる老婆の見た画柄(えがら)である。これを制度科学の書き物に仕立てるとするならば、イゾルデ姫の物語は12世紀まで各地で生き生きと口承されてきたが、サホ姫の物語は8世紀既に書記されて固定され、スルメのような姿になってしまっていたといたという相違を処理する作業が必要になる。
     それと「通時対比」の問題が残る。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」は16世紀末の作品であるから、paternalismの頂点へと向かう大英帝国ならではの物語となる。とすればpaterenalismの別系統の頂点にあった幕藩体制下における人情浄瑠も、その影響下になかったとは言えなくなる。paternalism、新興庶民層、心中 での三題話も出来るような気がするのだが。