中川一政美術館

   今年は真鶴半島の花を見る予定にしていたのだが、3月中旬から、月曜日ごとに雨になり、結局4月の中旬にしか行きつけなかった。どうせ暇なのだからと雨天順延にしたのがいけなかった。それでもこの小さな美術館は充実していた。
   独学で画家になっていった氏の人柄もよく理解できる展示で、中の土産用絵葉書に俳画があった。

花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや(藤原家隆

   鎌倉幕府の成立はこういう歌とともにあったのだと、知ったのはその後にたまたま『意味の意味』が新装なったというので、旧版を取り寄せてみたら裏表紙に家永三郎の『日本思想史に於ける否定の論理の発達』の名前が載っていて、これも取り寄せてみて知ったことである。この著書はすぐれものである。とにかく引用された和歌が本文と一体になっている。古文苦手意識があるので、引用和歌には現代語訳が欲しいというのがいつもの感じなのだが、本文の意味が明晰なので、引用されている和歌の意味もわかるようになっているから、その必要を感じずに読み進むことができる。
    というようなことを考えていたら、入場の時にもらったパンフレットの中の一文が目に飛び込んできた。読書にも通じる絵画鑑賞論。

画の見方

  画の見方と云えば画をきゅうくつに考えないで見ることです。
  富士山を見てよい景色だと思います。しかしよい景色は富士山ばかりではありません。
  富士山ばかりをよい景色と考えすぎると、天の橋立へ来るとわからなくなります。
  そういう風に決めずに見ることです。
  こういう風にすれば鑑賞の範囲が広くなります。
  それからわからないものはわからないとしておいて、わかるものをまず味わって行けばよいのです。
  人というものは其人の心の深さだけしか見ることができません。深い心の作品を見るにも自分の程度だけしかわかりません。いつ迄見ていてよい絵というのは、自分の心が成長していってもまだ奥底のわからぬ絵のことです。自分にとけぬ謎のある絵です。
  自分のわかる程度で素直にみてゆくことです。理屈ぜめにして見てゆかぬことです。自分が成長すればわかるだろうと思う事です。そして成長する事を考えた方が近道なのです。 
   こういう風にすれば鑑賞の内容が深くなって行きます。   
   以上のように鑑賞の広くできるように深くなるように二つあわせてゆく事で見方が鍛えられると思います。