テイルをめぐって;書記言語と公式言語(よそゆき語)

   「月刊言語7月号」は、特集「言語の危機と話者の意識」の特集の棹尾を岩波書店の刊行物に上梓されたトンデモ記述でかざっている。すなわち日本の方言は三項対立で豊かだが、標準語は二項対立で貧しい、と。
    だが例文をみれば方言には、いわゆる助詞が抜けていて、標準語の例文では本形である助詞〈ハ〉の文型ではなく、多義形におちいりやすい〈ガ〉が用いられている。これでは比較対照研究とはいえない。論考の最初と最後をディクソンなる人物からの引用で飾ってあるが、その中に「地道な観察・記述」が大事だとある。
    だが、研究で大切なのは血のにじむような努力でも、石の上に三年のような忍耐でもない。正しい方法と、自らのありようを自省し、よりよい明日への効率的な貢献をするという真摯な生き方だ。ただし結果としてブレークスルーをうむような研究はそれなりの忍耐とあくなき追及心を伴っている。研究者への適性とはそのような時間を冗長とは感じないで、密度として感じていく感受性であろう。
     筆者は東京近郊に育っているので、方言について言及する資格を持たないが、公式言語については大学を卒業した後、企業で言語ゲームの修羅場を生き抜いてきたので発言する資格をもっていると自負している。

   それでは本論へ。 標準語の例文として掲げれている文を本形で引用すると以下。
(1)太郎は運動場を走っている。
(2)松の木は倒れている。
  結局、ここではっきりするのは(2)の非意志動詞では文意は一義であることである。すなわち
(2−1)今より以前に、ある松の木ガ倒れタ。
(2−2)誰も何もしないので、今現在、その松の木ハ、(そこに倒れて)イル。
   問題は(1)の方で、公式言語ではこれは非文とされる。なぜならば補うべき語が抜けているので有意な情報がえられないからである。すなわち
(1−1)今現在
(1−2)いつも
(1−3)今より以前に
   動詞を入れ替えれば政事でもっとも大切だったのは、(1−3)の文意であったことが了解されるであろう。すなわち武士に二言はない以上に、おしなべて人は、行為の結果を持続する時間のうちに引きずっていかなければならないということである。それが人倫ということである。
(1−3)’太郎は、人を殺めている。


  筆者がこの「テイル形」の豊かさ、すなわち多義性、つまりは取り扱い注意語であることに気がついたのは、公立中学で、ブラジルから家族と一緒に帰国した生徒を教えたときだった。その中学生にとって基本動詞文型は「テイル」だったのである。たしか家族は群馬あたりの出身だったと思うが、とにかく学校国語と辞書の規範とされる「動詞終止形」が実は書記日本語のための虚構ではないのか、という疑問をもった最初である。
   その後小松英雄大野晋らの日本語論を読んで、学校時代になんとなく身につけた標準語という思い込みを一度蔵出しし、ホコリをはたいて本当に大事なものだけを身の回りに残し、残りは封印した上でお蔵入りしなければならないと考えている。
   そのための方法は日本語の構造、あるいは日本語の成り立ちを丁寧に描くということである。具体的には、現象をできるだけ細かく分割して、それを無理にでも時間の順序にならべてみるというデカルトの方法にのっとった作業が必要なのである。
    言い換えると、それはベルグソンの主張ともかさなるが、方言のような空間記述語に安易な寄りかからないで、時間のうちに思考を重ねることが必要なのである。安直な方言礼賛は、じつは「分割して支配せよ」、という帝国主義全体主義のもう一つの顔なのである。つまりゲシュタルト全体主義と対峙する考え方である。
     ついで気になったのは、論者が「松の木」も「太郎」も等しく「主体」とくくっていることである。確かに英語は他動詞の主語も自動詞の主語も「subject」の一語で済ませているが、その代わりにその対語の階層という仕掛けを持っている。日本語にそのような構造、あるいはそれを記述するための手立てがなければ言語ゲームの担い手は育てられない。とすれば八つの方言の消滅よりも心配すべきは日本語の消滅ではないだろうか。事実、親と文部省はそのように考えて小学校からの英語教育の導入をのぞんでいる。
    言語学が担うべきはそのような状況下で日本語をどのように改革改良すれば言語ゲームの担い手を日本語で育てられるかということである。現在のような方言の多様性研究などなんの役にもたちはしない。自らの母語が立っている「板子一枚下は地獄」という危機感がなくて、どうしてよりよい明日を築けるだろう。あるいはアイヌ語や沖縄方言がどのようにして失われてきたのか。それを白人支配層の自虐的喪失感への卑屈な翼賛におわらせるのではなく、当事者自身の幸せの模索を冷静に見つめていくとことを通して追求するべきである。そもそも方言研究を文法研究に還元して得たりとしている学会こそ多様性の失われた末期的惨状なのではないか。
    『文化の型』の冒頭に引用された「こわれたコップで水をのむ」という隠喩は白人に支配されたnativeの悲哀をさすと普通は考えられている。だがルース・ベネディクトの仕事全体を考えるならば彼女自身、つまり英語話者の悲哀を指し示していると考えるべきなのである。事実英語は古層に正体不明の言語をもち、その上にケルト語、ゲルマン語、アングロ語、サクソン語が複雑に乗っていて、最後にノルマン語がはいり、さらに長らく公用語にはフランス語とラテン語がはびこっていた。
   その全体のありようの上に英文法の規範はできあがっているのである。その一部分を切り取ってきて日本語と直接比較対照しても有用な知見は得られない。
   言語とはあるがままの自然ではなく、人為によるmakingの対象である。手つかずの自然が幻想であるように、保護すべき公式言語などありはしない。
   公式言語は作られてきたものであり、崩れ落ちるそばから作り上げていく営為によってのみ持続しうるものである。すべての言語は消滅してきたし、消滅の崖っぷちにたっているのである。それは共同体というものが本質的にかかえているリスクでもある。


■語彙構造の例

King-subject 王ー臣下 殿上人、お目見え以上。要件は家之子・郎党をもつ主(あるじ)
subject-object 主じ体ー者ども体 (使役)
subject-object 主体ー物体
subject-object 実体ー物体

subject-object こちらーそちら(オタク) コンピューター用語では物体性をともなわない処理対象データがobject
subjective-objective 主観的ー客観的  
subject matter-thing 主題、対象ーもの、物体


参考までに、学校英語で習う文法用語
subject-object 主語ー目的語
sbuject-verb 主語ー動詞
nominative case-objective case 主格ー目的格
subject-predicate 主部ー述部
main clause-subject clause 主節ー従属節