語末対〈ている・てある〉と 「5W1H」

 前回の文型を三詞文型を用いて整理しすると、以下。
(1−1)杉の木ハ、今現在、倒れている。
(1−2)杉の木ハ、今現在、倒されている。
(1−3)杉の木ハ、現在までに、倒されている。
(2−1)杉の木ハ、以前、倒されている。
(2−2)杉の木ハ、以前、倒されてある。
(3−1)太郎は、杉の木ヲ、倒している。
(3−2)太郎は、杉の木ヲ、倒してある。


   現在の学校国語はあいかわらず「春はあけもの」の二詞文型を正統な日本語の文型としているので、三詞文を基本として日本語を分析する習慣が身についていない。それゆえに、文型解析が比較対照にならず、単なる「並べ」に終わってしまう実例を、三詞文型をつかって、このブログで いくつか抽象してきた。たが、他動詞を扱うときは、四詞文型で考える習慣を身につけたほうが良いようである。それは上記の例文を変換するとはっきりする。つまり、現在形とか進行形とかは文末の型式からは決められないことがはっきりする。
(4−1)杉の木ハ、今現在、どこかに、倒れている。
(4−2)杉の木ハ、今現在、どこかで、倒されている。
(4−3)杉の木ハ、現在までに、どこかで、倒されている。
(5−1)杉の木ハ、以前、何者かによって、倒されている。
(5−2)杉の木ハ、以前、何者かによって、倒されてある。
(6−1)太郎ハ、杉の木を、今現在、倒している。
(6−2)太郎ハ、杉の木を、今現在までに、倒してある。
(6−1)’太郎ハ、杉の木を、どこかデ、倒している。
(6−2)’’太郎ハ、杉の木を、どこかニ、倒してある。


    上記例文を文末〈た〉に変換してみよう。のこれにより、日本語における〈時間の構造〉の一端が明確になる。あるいは放っておくと助詞〈に〉が〈で〉を凌駕して繁茂していってまう事実も説明する。さらには〈ておる〉を代入してみれば、この語末形がどのような素性かも知られてくる。そう、「てくる」「ていく」「ておく」も代入してみると面白い。だが、こういう遊びは「語分類」という「文の法則」とは無縁の雑学にマインドコントーロールされているとできないのである。
    あるいは〈ている〉〈てある〉〈ておる〉〈てくる〉を使ったマトリックス遊び自体が、絶滅危機言語の一つであるエスキモー語の日本における第一人者の講義の中に、かつて出てきた「中接辞」という考え方に触発されてはじめて可能になる遊びなのである。その先生はハナから日本語には「中接辞」は存在しないと決めつけていたようだが、そういう予断が日本語を貧しくするわけではないが、日本語の言語観察を貧しいものにすることは間違いない。
【4−1】杉の木ハ、その時、どこかに、倒れていた。
【4−2】杉の木ハ、その時、どこかで、倒されていた。
【4−2】杉の木ハ、その時までに、どこかに、倒されていた。
【5−1】杉の木ハ、その時までに、何者かによって、倒されていた。
【5−2】杉の木ハ、その時までに、何者かによって、倒されてあった。
【6−1】太郎ハ、杉の木を、その時、倒していた。
【6−2】太郎ハ、杉の木を、その時までに、倒してあった。
【6−1】’太郎ハ、杉の木を、どこかデ、倒していた。
【6−2】’太郎ハ、杉の木を、どこかニ、倒してあった。


    当然、次に来るべき五詞文型があるとすれば、それは英語の作文・読解でたたきこまれる〈5W〉のことである。日本語に訳すと、「いつドキ、どこデ、どやつガ、どれヲ、なんで(ナニユエニ)」。これに、「どのように、どうした」を加えて「正数7」を神棚に飾るべきだと、小うるさい日本語話者なら考えるところだ。だが、英語は「正数6」をもって「5W1H」とくくる。これは虹の色数問題と通底するはずだが、今はふみこまない。しかしこういうレベルの問題が富永仲基のいう「くせ」であり、ゲシュタルト心理学でいう」「繰り返される身体経験」、」あるいは構造主義でいう「深層構造」である。
  と、ここまで考えてきて、むかし習った漢文の先生の口癖、「嘘八百」を思い出した。かの国ならば神棚には大八明神を飾っていたのだから、作文の要諦は以下になるはずだ。
〈1〉、いつドキ (今ナンドxi↗  いつナンドxi↘)
〈2〉、どこで
〈3〉、どやつが
〈4〉、なんで(どんな手で→どのような手で)
〈5〉、どのように
〈6〉、どいつを
〈7〉、どうした
〈8〉、なんで(どんなユエに→どのようなユエに)

    ここですぐに気がつくのは、現代日本語では〈4〉と〈8〉が相変わらず、未分明であることだ。そのことが犯罪捜査における物証至上主義(凶器探し)と、犯罪報道における動機至上主義(12歳の少年は何故人を殺したのか。裁判では明らかにならなかった。問題だ。)につながっているのではないかと考えてみる価値はある。
     それは従前は、〈5〉に含まれるモノとして一括して考えられてきたからではないだろうか。そうすると正数6となり、英語の型に治まる。
     これについて、動詞の祖形が終止形ではなく未然形であると考えるときに、この一つの解釈が得られる。そのためには「あめつち48音字」を諳んじている必要がある。すなわち「言わざる・言わおふ・言わせよ」の部分を。
    現在でもとりわけ経済事犯では捕まるのは下っ端で上層部はなかなか捕まらないといわれる。つまり犯罪では、「殿上人と地下人」がいると考えるのが合理的なのである。もちろん警察にできるのは第一に下手人捜査であるから、主語は〈3、どやつ〉であるとして、〈4〉〈5〉を一括して凶器を物証としてあげることで捜査の大筋は固まる。反対に社会的に一番大きな関心は当該下手人の動機、つまり〈8、なんで〉が「おふ、せよ」のどちらであるのかに集まってきたのが歴史であろう。〈おふ〉が原因であれば、救済は宗教の担当だし、〈せよ〉の結果であったとすれば、たいてい闇から闇へと葬られるのを甘受しなければならないのが民の宿命ということであろう。
    一方、珍しく、黒幕、すなわち殿上人から捜査がはじまった時には、動詞は「使役形」であり、〈4、なんで〉は〈3、どやつ〉に還元されて、そいつがどんな凶器を使ったなどの些事は〈5、どのように〉の中にくくられる。そして焦点は〈8、なんで〉になっていく。しかしここでは物証は得られない。だが、そういう問題について、ケンケンガクガクと時間をつぶすのが面白いヤカラが多いのは洋の東西を問わないようである。小人閑居して不善をなす、も洋の東西共通のようである。


keyword;動詞文法