母語か母国語か;その1ー悪いのは「依存症」だ

     田中克彦という言語学の理論家が『漢字が日本語をほろぼす』という本を最近上梓した。新書がでれば必ずチェックするファンであるが、最後の「脱漢入亜」という主張はかなり難しい、と思った。それに本書の出だしの「日本語は母国語ではなく母語である」という主張も一筋縄ではほどけない。なんせ、私が尊敬する文学理論家の篠沢秀夫氏の年来の主張が「母国語へ」なのだ。
   これでは両氏ともが危機感を抱いている日本語・国語の改革がまたまた先ののばしになってしまうのは明らかである。
   仕方がないので両氏の主張を〈位相・相位〉の問題として解いてみよう。文学と言語学では位相が異なっていることに異議を唱ええる人はいないと思う。
    前提には漢字も言語も原子力も強烈な技術だという認識がまずある。日本共産党が今頃になって原子力は未完の技術だから反対だとか言い出したらしいが、すべての優れた技術は未完である。完成を見るときは無用になったときだ。残渣は博物館か辞書へとお蔵入りする。
    だったら、何に注意しなければならないかというと、それは「依存症」という名の「油断・思考停止」であろう。それは必ず「恫喝」から始まる。
     ・原発がなければ、日本経済は30年前にもどって失業者があふれるぞ。
     ・安全な放射線はない。だから0.1(マイクロシーベルト/毎時)以下を文部省は保障しろ
     ・漢字がなければ日本語はぐにゃぐにゃになって思想する言語でなくなってしまう
     ・旧カナでなければ、日本語は滅びてしまう
     ・かな文字だけにしないと日本語は西欧に遅れをとる。
     ・タバコの煙がいやだ?だったら会社辞めろ。タバコがなければいい企画は生み出せないんだ。
     ・安全な発ガン性物質はない。だからタバコにはどんな重税を課してもかまわない。
     ・ようするにタバコを吸う奴は非国民なんだ。

   同じように国家忌避症も国家依存症も思考停止を生みやすいという現実から出発すべきだということだ。それは漢字忌避も漢字依存も悪だということでもある。
   そこで大事になるのは時代認識。つまり現実に1945年までが国家依存だったとすれば、1980年代までは国家忌避の時代だったということだ。漢字でいえば進駐軍の指導による国語改革により、漢字の字数には制限が加えられ、訓読みと称する当て字は名前に使うことが厳しく制限された。
    その後、復古主義懐古主義の流れが強まった一方で反流も起きてきた。もっとも衝撃的だったのは1990年代に出てきた子供の名前に「悪魔」をつける権利が主張されたことだと思う。
   子供の書記名は母語ではない。母国語なのである。それについての暗黙の前提が崩れてしまった以上、「母国語の再建」ということが喫急の課題として浮上せざるをえない。