朝日新聞の一億総懺悔キャンペーンを疑う

    6月6日に「フクシマ 秘められた原爆開発」という記事がのった。塩倉裕氏の記名記事だが、なぜか大学教授のコメントがあって、原発大国を選んだのは、私たち国民で、悪いのも私たち国民よ、という含意を誘導するキーワードがちりばめられていた。
   福島県に昭和20年4月以降ウラン採掘の鉱山が運営されていたことと1971年の福島第一原子炉営業を一直線で結ぶのは無理であろう。それをごまかすために使われてのほほんとしている大学教授の知性は疑われるべきだ。
    排外尊崇の帝国海軍はそれなりに海外情報を研究していた。というより、そのような情報を基に研究者を動員していた。当然それは予算をともなうから、ミッションではなく予算のために研究する人たちはそれなりの作文を提出して仕事にありついたのであろう。記事では理化学研究所が中心になっていたと書いてるが、当然その中のengineering出身者であったはずだ。
  同じような研究依頼は「殺人光線」についてはtechnology出身者に来た。日経新聞渡辺格氏が回想していたが、日本の生命線だった南方で惨敗をし続けている後にそのような命令が来てもまともな人間なら引き受けたくないと思うはずだ。だが、泣く子も黙る軍部にどのように鈴をつけるかで相当悶々としたようである。
    結局、「敵国がそれを手に入れた以上は国民を守るためには早急に研究体制を整備しなければならない。不要不急の研究を中断して万全の体制を作るべきである。ただし現下の情勢に鑑みて、レーザー兵器そのものではなく、防衛のための基礎データの積み上げを行うことが肝要である。」といって極小電圧でできるレーザー光線を使って防護素材のスクリーニング研究を行ったようである。


     ここにengineeringとtechnologyの歴史的な伝統の違いが現れている。そして日本の場合は、もっと大きな違いが理学部と工学部との間にある。
     父は理学部に進学するときに、親戚中から反対された。戦前は「末は博士か大臣か」というのは「工学博士か法学部出身の大臣」以外を意味してはいなかった。だから理学博士などは文学博士同様に病弱か変わり者か金持ちの道楽かとしか世間は受けとらなかった。それでも親戚の中でたった一人だけ「理学部といっても一応東大なんだから、どこかの田舎の中学教師ぐらいにはなれるだろう。若いものが出世や栄達には興味がないといっているのに小利口な大人が邪魔立てすることはならん」という人がいて、やっと理学部に進学できたのだ。
    巷で流行のイギリスから直輸入された「サイエンス・カフェ」や阪大総長肝いりの「産学連携」が胡散臭いのは、こういう歴史を踏まえていることが伝わってこないからなのだ。engineeringもtechnologyも対語はscience。そしてそのまた対語にはartが来る。scienceには人文学者の趣味的な重箱の隅つっつっき研究や高踏的な藝術談義を止揚するべきミッションもがあるのである。

     敗戦は軍部の暴走の帰結であり、2011.3.11はengineeringとtechnologyとの中核にあった工学部の暴走の帰結だったことをはっきりと抽出しなければならない。
    それを抑えるべき立場にあった大臣たちの末裔が「それでも私たちは戦争を選んだ」などと寝言を言っているのに同調するだけならば、それこそ文学部など不要だ。政治とは倫理ではなく技術だ。
    8.15と3.11の両者に共通しているのは「文民統制」の失敗である。菅首相の政治主導より「おれ」の方がマシだといっている人たちが度し難いのはそこの自覚が皆無だからだ。とすれば今考えるべきは「国民が統制するシステム」をゼロからどう構築するのか、という一点以外にない。そして、それ以外に「国民を統制するシステム」からの解放もありえない。


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6月14日補足
組語〈時代・時流・時局〉
使い方;軍人の時代・軍人の流儀・軍人の派閥・軍人の部局・作戦の局面