血液製剤汚染と環境汚染。何が違い、何が、同じなのか。

   結論から言おう。技術革新と、それに背を向けた既得権益層の責任回避である。
   エイズが社会問題になったのは、1977年で、世界では1984年には加熱製剤が開発されていたにもかかわらず、日本では1986年にも非加熱血液製剤が厚生省により認可を受けていた。つまり日本では政府も企業もそして、それらを監視すべき体制内知識人のだれも、非加熱血液製剤の危険性を想定していなかったということである。
     この問題で刑事事件にまでなった国は日本とフランスである。いかに既得権益層が守られている国柄かということである。そしてここで菅直人氏が活躍されたことは記憶に新しい。だが、氏が登場したのは国際的に非難されてからである。外圧なしに氏が既得権益層に引導を渡したわけではないことを情けなく思いたい。だから氏は英雄にはなれないが、氏自身がそのことを承知していることが大事である。
   同じように福島第一の原子炉が危険であることは日本の政府も企業もそして体制内知識人も想定できなかった。だが、前福島県知事は想定していたし、世界の人々は想定していたのである。とすれば世界の人々にとってフクシマは起きるべくして起きた事件である。それは2011年の3月11日であることまではわかっていなかったかもしれないが、大地震が起きれば、大なり小なり人工放射線が環境中に放出されることは知識人ならば想定できたことである。
    そうなれば、人工放射線原理主義にたてば、その国、その地域からは、人々はevacuateされなければならない。
    血液製剤汚染との違いは新技術がまだ、確立していたわけではないということである。ビル・ゲイツ東芝とが画期的技術の最終段階に入ったといううわさは3月以前に流れていたし、ドイツも含めて世界的にも古い原発に代わる新技術への期待は確かに存在していたらしい。
    だが、フクシマの惨状が、この新技術のハードルを高めたことは間違いない。私の直感で言えば、そのハードルは「地産地消に堪える原子炉」となるはずだ。原子炉に大きな事故が起きたときには近隣の住民は有無を言わさず強制退去になることを承知した地域にしか原発立地をIEAEは認可できなくなるであろう。それは住民の安全確保であると同時に住民に対するペナルティでもある。