『煩悩の文法;ちくま新書』

     以前日本認知言語学会の大御所池上嘉彦氏の「する・なる」日本語論を批判したことがあるが、関西言語学会の重鎮による新しいtrinity枠組み「体験・できごと・状態」を知ってまたまた不愉快になった。最初に出てきた以下の文例対が氏の日本語理解の根本問題をただちにあぶり出す。「ちくま新書」という主語撲滅運動の一翼を担ってきた人たちにはわからなくても、常識があれば、そのトリックのまずさ、そういうセンスの上に日本語教育学会が運営されていくことのおぞましさが見えてくる。見えないとした勉強が足りないのである。
・庭【ニ】木がある        ・庭【デ】木がある
・庭【ニ】パーティがある    ・庭【デ】パーティがある

   上の文例では現代日本語話者の体験は語れない。体験とは主体によるobjectへの働きかけなのである。だったらば以下の文例を使うべきである。
・庭【ニハ】木の見つかる場所がある        ・庭【デハ誰かによって】木がみつかる
・庭【ニハ】パーティの行われる場所がある    ・庭【デハ誰かによって】パーティが行われる

    そう、【ニ】は場所の目印で、【デ】は主体の目印なのである。当然物理学でいう「質量保存則」によって「働きかけ」が無い限り object は動くことも、消失することもありえない。このことを日本語と格闘してきた大伴家持紀貫之藤原定家本居宣長が知らないはず無いでしょう。彼らは地方の監督官や医師などの技能集団の一員だったのですもの。
   同様に「四色ボールペン」を処理できる。
・四色ボールペン、北京【ニ】ありますよ
・四色ボールペン、北京【デ】ありましたよ

変形すれば
・四色ボールペンならば、北京【ニ行けば見かけることが】ありますよ
・四色ボールペンならば、北京【デ見かけたことが】ありましたよ
あるいは
・四色ボールペンならば、北京【ニモ】ありますよ    ・四色ボールペンならば、北京【ニモ】ありましたよ
・四色ボールペンならば、北京【デモ】ありますよ    ・四色ボールペンならば、北京【デモ】ありましたよ


ちくま新書さんよ!

   「主題」と同じくらいわけのわからない、 「デキゴトの存在場所」とか「体験の文法」などという訳のわからない専門用語を日本語に導入して文化鎖国を続けるのはそろそろ止してもらいたいものである。


  なお、省略語の復元の適否については以下参照
ある実務者の論理  http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/russell.pdf
四字熟語「度量衡重」   http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/koujyuu.pdf