非人情でよむ 『関羽伝』

  テレビで『三国志演義』の紹介をしていたので、図書館で借り出してみた。もと日経新聞論説委員でコラム「春秋」にも寄稿していた人が書いている。
三国志演義
    webによると1703年には朝鮮語に翻訳されているという。江戸時代だ。だが、『三国志』は3世紀の明で、三国時代陳寿という人が「史記」から、独立させて物語化している。ということは日本に平安時代には影響が及んでいた可能性を考えることはそれほど突飛なことではない。
"    これは、従来の伝統にのっとり一応は魏を正統と置いているが、体裁は「魏書」「呉書」「蜀書」と三国を分けて扱ったところに大きな違いがある。唐の太宗(
在位626- 649)の時代に正史と認定されている。"
    とすれば、遣唐使の往来によって「魏志倭人伝」と「三国誌」のどちらが正統であるかについて朝廷内で議論が沸き起こっているはずである。


【関三郎】
    横浜の中華街に関羽をまつる像と廟があることは有名であるが、じつは華僑の闇社会でも関羽は人気がある。そこでは「関三郎」と呼ばれているらしい。これが有名な「桃園結義」の順番と違うと指摘している。本来は劉備が長兄で、関羽が次弟、張飛を末弟とすることになっている。だが宮沢賢治は『風の又三郎』を残している。「太郎」では「桃太郎」のように「何者か」でなければならないし、「次郎」でも「三郎」でも要するに「いなくても困らない」と言うことで、「どこのだれか」が問題にならない人物像にはぴったりの名前だとおもう。やくざの親分というのはどんなに一世を風靡しても社会的には無名氏でおわるし、そのことに誇りを持っていたはずなのである。
     現在の日本のように河原者までが「襲名」「襲名」と大騒ぎすることに疑問を持っていない方がおかしいのだ。
    さらにp54で三人の容貌が記述されていて、関羽の特徴は「真っ赤な顔」「切れ長の目」「髯を胸までのばしている」の三点だと言っている。これって猿丸、光源氏、黒髯の大将を彷彿させると私などは思うのだが。さらに後世には「五岳隆起」「神光満面」「目乎含真」などの抽象的な記述が加わったと言うが最初の特徴は「天狗」へと引き継がれたのであろう。それにしても「赤面」は「紅顔」とはちがうのだからまず「日焼け顔」を想起するのが常識だと思う。殿中にいて理屈を捏ね回すのではなくお天道様の下をとびわまり、はしりまわり、情報収集をし、施策の優先順位を建策するのが仕事であったはずだ。
    本当の庶民はそういう人が時代も世間も切り開いてきたことをしっていて、名乗りをする英雄などクソクラエと思っていたのだと思う。
    無名氏が一番。
    それが鴨長明夏目漱石を引き継ぐと言うこと。



【忠義】
   ここで「義」と「利」を対にしていたのは新鮮だ。ただし、義を公共に関連付けたのでは、それこそ「公利」と同じくわけがわからなくなる。やはり和語「かせぎ・つとめ」を対にして、「つとめ」をさらに「公私」にわけて考えるべきだ。「かせぎ」が目に見えるもの、数量化になじむものとすれば、それは「利」そのものであるが、それゆえに瞬間的な限定をもつ。長期的な視野にたてば、「損して得をとる」と言うことも重要になってくる。そのときに「つとめ」という概念が生じる。それは空間的には「子のつとめ」「弟のつとめ」「分家のつとめ」「主君へのつとめ」などの階層性を帯びてくる。
    それらを統合するものが「利と義」になる。こうなると教科書的な一義の処世法では説明できなくなる。利は当面の有利さだが、義は「なるようにしかならない」という長期的な損得に結びつく。結局個々人の人間性が個別の行動を決めるし、逆に言えば個別の行動から個人の特性を把握していくことになる。


【義美】【忠仁(二心)】
    今まで四字熟語を追ってきたので書いたことはないけど「義理」ではなく「義利」が出てきたので思い出しておくと、対義として象形上浮かび上がってくるのは「義」の場合「美」なのである。これだと「いろいろ考えても最後は直覚で決めるしかない」というきわめて「やくざ映画」にちかい生き方が導かれる。そして「忠」が「中心」だとすれば学校では教えないが「仁」の『漢字源』によれば古形であるところの「二心」、すなわち限りなく「広大な心」こそが中核義としておさえておくべきだとなる。これを読み下せば日本人ならば平重盛の「忠ならんと欲すれば孝ならざらん。孝ならんと欲すれば忠ならざらん」を想起するはずである。


【善悪不二】【邪正一如】
    なお、「忠孝」の庶民版がわからないできたのだが、先週の朝日新聞の書評に出ていた斉藤英喜氏の著書のひとつ『荒ぶるスサノヲ、七変化』に上記の四字漢字語がでてきて、なんとなくつながった。どうやら天台本覚派から出ていて、平安末期にはそこそこ広まっていたらしい。これが卜部吉田家出身者を経て「アマテラス・スアノヲ」の並存同格の主張へと発展していったらしい。


【㹦蝉】
   四大美人あるいは五大美人(㹦蝉・楊貴妃・西施・虞美人・(王昭君))というのが古来よりつたわり、その最古の人。「美女連環の計」の道具で、両将軍の間に入って両方に媚をうって、二人が身動きできなくする計略の代名詞。海上戦では二つの船を文字通り連環して身動きできなくする計略もしばしば使われたらしい。当然鎌倉時代の地下人が馬鹿揃いでなければ、いくつかの作戦を試みていたはずである。それにまつわるお話が学校の歴史で一切でてこないというのはどういうわけだろう。
    中国の方では㹦蝉はその後一方の呂布と結ばれて表舞台から消えている。中国でもその後譚は出てきた。有名なのはやがて関羽に切り殺されるというものである。が、吉川英治はその場で服毒自殺をさせている。つまり戦前戦中の日本の読者に媚をうるにはそれが手っ取りばやかったのであろう。
   名前の由来はわからないとしながらもかつては廷臣の被り物は「豹の尾」と「蝉の羽」で覆われていて「㹦蝉」は高級官僚の代名詞だっとしている(p89)。となれば、当然源氏物語の「帚木三帖」と「末摘花」への影響も考慮してしかるべきとなる。そして吉川英治と違って、紫式部都落ちしても、落ちぶれても生き延びる姫君を造形したと言うことである。それは受領階級という安定した社会階層の成立とかかわっている。




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