「彼はおおいに勉強したが、合格した」

    家のかたずけをしていて『論文の書き方;清水幾太郎 1959』があったので、手にとってみた。すっかり忘れていたのだけど助詞「が」について実際的な指摘が上記文例で示されていた。著述の目的が社会科学の論文の構成の仕方にあるので、ここでは、助詞「が」がいかにあいまいで、論文の要素としては認めがたいという指摘でおわっていて、言語学的な考察には至っていない。
    その後の国語学の動向を知っているものには、この指摘に対する感情的な反発が根強かった理由とその反撃の非論理性がよく見えてくる。
   あるいはこの指摘を逆手にとって助詞「が」に逆接の義だけを見るのは誤りであるとの考えを導き、具体的に、「源氏物語」冒頭の「が」を逆接とは見なさないとの主張もある。
    「判断・断定(3);古代中世の接続詞〈が〉 http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20120502


   これは日本語はもちろんのこと、ラッセルが指摘しているようにすべての言葉は詰誳によって、効率的に運用されているという事実を見据えて考えていくべきである。そのことを規範化する概念が「文脈依存」である。
    ここでは継起助詞「そして」「それで」「と」を使って観察する。
    常に生起する事象は二つ以上あるのだから、一つの継起助詞には必ず二つ以上の文例が考えられる。
   Aa;おおいに勉強した。そして合格した。
   Ab;おおいに勉強した。そして落第した。

   Ba;おおいに勉強した。それで合格した。
   Bb;おおいに勉強した。それで落第した。

   Ca;おおいに勉強すると、合格した。
   Cb;おおいに勉強すると、落第した。

   【A】 もっとも素朴な継起助詞であるから、両文とも問題ない。しかし、この文例をながめていると日常の文章ではあまり使わないことに気がつく。そのことによって最近親しんでいる古文よく出てくる「故」のよみ取りにくさの原因がはっきりする。これは「それ故に」と「それなのに」の両義で出てくるので、さかのぼってどちらの義であるかを確認しないとよみ進むことができない。
   【B】  そうするとここで簡単に継起助詞「それで」と扱ったことは不十分だったことが意識にのぼってくる。この助詞には「後件と前件の間には関係がある。どういう関係かはわからないけど、関係がある」の義がついている。だからこの助詞は同主語文ではかろうじて「継起助詞」として機能するが、異主語文では用いることができにない。
   異Ba;太郎はおおいに勉強した。それで花子が合格した。
   異Bb;太郎はおおいに勉強した。それで花子が落第した。

   【C】  これが現在一番良くみかける文型であるが、こうして見るとこれは両文を一つの文として合体させる機能をになっていることが明瞭になる。だから主語を詰誳させるてみるとこれは前件が連体形であったことが見えてくる。そうするとこれには両パターンが考えられる。だが、「勉強した」と主文に時制を一致させた文例は使えるが、「勉強する」の方は後件に「はず」を挿入しないと非文になる。つまりは「仮想」の祖形がここで得られる。そしてこれは実は行動する主体と結果を予測する主体がことなる異主語文でもある。
   詰Ca;花子がおおいに勉強すると、花子は合格した。
   詰Cb;花子がおおいに勉強すると、花子は落第した。

   屈1Caおおいに勉強した花子は、合格した。
   屈1Cb;おおいに勉強した花子は、落第した。

   屈2Caおおいに勉強する花子は、合格する【はず】。
   屈2Cb;おおいに勉強する花子は、落第する【はず】。


    ここまで文例を集めてくると、「屈1Ca」には漢語の挿入によって文意が明瞭になることがわかってくる。
   屈1Caおおいに勉強した花子は、【結局】合格した。
   屈1Cb;おおいに勉強した花子は、【結局】落第した。
結局のところ、
   この【結局】には【合格すると予想していたが、そうはならなかった】の中の【が】が入っているのである。究極の詰誳といってもいいかもしれない。


  さて、最後に見出しの文例を詰誳しておこう。
 文例;彼はおおいに勉強したが、合格した。
結局文;彼はおおいに勉強した。結局、合格した。
   これは寛容の原則に従って意味をとろうとすれば両文脈を仮構することが一番の近道。

文脈文;彼は確信をもっていた。そして、おおいに勉強した。結果合格した。
    彼は自信がなかった【が】、おおいに勉強した。結果合格した。

源氏物語冒頭を詰誳させれば
    いづれの御時にか、女御・更衣あたま候ひ給ひける中に、【時めき給ふことあるまじき】いとやむごとなききはあらぬ【方】が、すぐれて時めき給ふ【こと】ありけり。」