田一枚 植えて立ち去る ヤナギかな
正月明けの番組を見ていたら、上記の芭蕉の句が取り上げられていた。説明は類書にあるとおり西行の次の歌を踏まえていた。
・道のべに清水ながるる柳かげ しばしとてこそ立ちとまりつれ (新古今;西行) |
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両句を関連付けるところまではいい。
だが、説明となると、句を一意に還元しているので、何が面白いのかさっぱり分からない。
これはヤナギには二字が候補に上がることを踏まえて複数の意味をとるべきだ。
楊ならば、
これは「陽」とかけて太陽が沈む風景をイメージすべきだ。
そうすると灼熱の太陽の下で丹精こめて田植えをしていた農民の姿がうかぶ。
であれば「田一枚」はその日、最後の一枚となり、明日はまた、厳しい農作業が待っている。その人々の休憩の時の木陰を作くる「楊」なのである。
柳ならば
これは「朔卯」を踏まえて、ぼうぼうと葉の繁った夏の柳をイメージすべきである。そうするとたずねたのは早朝、月が傾いた頃となる。
そして「田一枚」は類書にある「一枚だけ」ではなく「一枚また一枚」となり見事に田植えの終わった見渡す限りの田園風景となる。
それはそのまま夏祭りへと人々をいざなう。とすればこれは夏至と満月の重なりを寿ぐ句とも取れる。芭蕉が実際に尋ねた年にそういう60年に一度の特別な日があったかどうかではなく、60年に一度の特別の年の夏至に、この句は意味を持って人々の脳裏に浮かべばいいのである。
それは蕪村の有名な春分と満月が重なった60年に一度の特別な日を寿いだ句も同様の味わい方があるということである。
・菜の花や 月は東に 日は西に |
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そのことが分かった時に西行の以下の歌を踏まえた芭蕉と蕪村の追従の仕方が見えてくる。
芭蕉は対比句を蕪村は双比句を西行に献じているのである。
・ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集) |
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