変だ・をかしい

先日聞いた高井啓介氏の講演が面白かったのでネットで検索したら 慶応大学の梅田聡氏がかかってきて、それで岩波の『フォーラム共通知を開く全9冊』がかかってきた。とりあえず『境界知のダイナミズム』というのを図書館で借り出してきた。
    第一章で、違和感、差異が取り上げられ、新しいコンセプトの器として「異和」が提唱されていた。ただし、「異和」はここでのオリジナルということではなく、山口昌男に加上して導入されている。だが、この二字熟語にどれほどの歴史的必然があるのだろう。
    異は黄の倒置形であるから五行では中心に対して周縁というのが第一義。頻用されている熟語としては異民族が第一にあがる。それは黄から導かれた横よりももっと距離があることを意味している。これは客観的世界といっても皇帝からみてのだが、の用語で頻用される熟語は「異同」だから英語では identification のこと。。
   それに対して「違」という字は「偉大」とか「韓」「葦」などと旁を共有し、頻用される熟語は「相違ない」。つまり基本としては主観を原義とし、それゆえ関連する二者以上の「同意」を前提とする。その合意に対して違背や違反、英語では disobedience があるかどうかで現実世界では紛糾してきた。つまりそれはそのまま和が乱れて一歩間違えば諍いや戦争に繋がるからだ。
     そう考えると「異和」という熟語自体がいくら民俗学の巨人の創案になったものであっても無意味なのではないだろうか。
フツーに考えれば現代日本語では「変」と「をかしい」で十分だ。
「変」が「気のせい」で終わる場合もあるし、
「をかしい」を経て「大変」になる場合もある。それだけのこと。
    ・変だ⇔気のせい⇔面倒だから忘れよう
    ・変だ⇔をかしい⇔なんとかしなくっちゃ
    ・変だ⇔でも自分だけさわぐって馬鹿みたい⇔僕だけがをかしいのかも
このことに確信を持つためには「をかし」の原義がわかっていないとむずかしい。「をかし」は動詞「侵す」から派生している。例えば子どもを「くすぐる」と初めは大喜びするが、やりすぎれば泣き出す。この事例をしっかりと認識しておくと、それが「面白い」に転義したのは「おもしろおかしい」という合成語によっていることがよく理解できる。そして「面白い」というのは人々が面白いと顔を上に向けるから他人からみて、そういう状態のことをいっている。反対は「うつむく」。
    ようするに「をかし」は触覚用語だから個別的で、「面白い」は生理現象ではあっても他人の様子を観察した客観用語。

差異・異同
同意・違背
和睦・相違
おもしろおかしい
をかしい・侵す
面白い⇔うつむく・おもくるしい