夢解釈と音喩

   東京・三田にある言語文化研究所では毎年秋に質のよい公開講座をおこなう。今回の最終回の高井啓介氏の講演は大変貴重だった。演題は「楔形文字文学とヘブル語聖書における夢解釈の技法」というので甲骨文字の分野との違いくらいの興味ででかけたのだが・・・・・。
    旧約聖書、つまりヘブル語聖書では数象徴と語呂合わせの二つが夢解釈の重大な鍵として認識されているという。
    具体的には創世記41章のファラオの夢を題材に話が進められたのだが、ここで古ヘブライ語では子音22文字で綴られ、母音は耳で聞きながら習っていく仕組みになっていたことに改めて意識させられた。つまり古ヘブライ語聖典というのはある種の暗号になっていて、読み方を習わないと意味がわからないようになっていたということである。
    例示された音は三つ。

  シェバア
豊作   サーバーア
醜い   ラッコート
しなびた   レーコート
やせた   ラーオート
飢饉   ラーアブ
備えをする   ヒンメーシュ
  ハーメシュ

    もちろん、私自身は古事記万葉集と格闘するのに手一杯で古ヘブライ語にまで分け入る余裕はないのだが、最後の司会者のまとめがまた秀免だった。なんと正月のおせち料理の「ゴマメとまめまめしい」に引き当てて神事における音喩と関連付けていた。
   だが、「まめまめしい」からはフツーは黒豆を想起しないだろうか。伊勢物語以来「まめ男」は「まめまめしい」と通底していく。では何故御節料理では、小魚のフライを「ごまめ」というのだろう?と帰りの電車でぼんやり思っていったところ、翌朝になってやっと「ゴマメの歯軋り」という慣用句を思い出した。
    つまり、音「まめ」には形象としての豆だけではなく、肯定的な人物像と、そのような中間層のかならず味わうであろう「歯ぎしり」せざるを得ない場面を従えている。それが日本語の在り様だということだ。そのような多義性を身につけるように正月の各料理の固有名は設計されているということだ。それは識字者のための字書とは別に社会的に継承されてきた。


    これで確信したのだが、夢見というのは寝ている間に音喩を通して語義の多義性の関連付けの再構築を行っていく脳機能のあり方と関連しているということだ。そしてなぜかは分からないが、このような睡眠時の語彙の組み換えなしに言語の脱構築は難しいということだ。


  まあ、まずは次の書物を図書館でチェックしてみよう。『 西洋精神史における言語と言語観ー継承と創造』









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