百人一首抄(宗祇抄)から堀河院御時百首和歌へ

拙著『狂歌絵師北斎とよむ古事記万葉集』で参照してきた『百人一首抄(宗祇抄) 吉田幸一編 笠間書院(1969)』に対してほぼ50年ぶりに別系統の影印本が出たので比較してみた。
予想通り、両書の仮名遣いが異なる。というのは笠間書院のは印刷本だから江戸時代初期の用字の規範をふまえているはずだと考えたからである。例示すると以下

書名    元和寛永本古活字版(17世紀中期)    姉小路基綱筆 (1441〜1504)
出版物    吉田幸一編 1969 笠間書院    小川剛生編 2018年 三弥井書店
題名    小倉山    小椋山
冒頭    をくらやま    小倉山
2行目    ゑらひ    えらひ
3行目    おさめ    おさめ
3番      
5番    於く山    奥山
10番    これやこ能    古連やこの
25番    名にしおハ々    名にし於ハ々
26番    をくらやま    小倉山
99番    ひともをし    人も於し


上のような作業をしていくうちに序文(要約)をきちんと読んでみたくなり、webをのぞくと以下がpdfで入手できた。
翻刻百人一首抄」(応永3年(/1306年)奥付)注と索引を付す;1978
吉田究;大阪産業大学産業研究所所報第2号
http://www.osaka-sandai.ac.jp/file/rs/research/archive/2/02-13.pdf
な、なんと、定家は新古今集が、とくに後鳥羽院があとあとまで手を入れたことが不満で後堀川院のときの新勅撰(1374首)を手本としてこの百首をえらんだとある。この新勅撰和歌集鎌倉幕府への配慮で、「承久の乱」で流刑に処された後鳥羽院と順徳院の歌を除外しているというから、百人秀歌を髣髴させる。そして定家存命中は口伝にしておいたのはいろいろはばかりがあったからで、為家卿の時代になって流布するようになったとある。この理屈は新井白石が死後数年は記録を公開するなと遺言したとか、現代でも公文書の公開は後刻になるのだから当然といえる。

宗祇抄の序文にもどると、具体的には「十分のうち実六七分、花三四分たるべき」を理想としているという。文体から見て、これを記述しているのは定家自身ではないから、類書の註釈から「東常縁の考え」という蓋然性が高いが百人秀歌のような対句構成だけでなく、歌番連をもとにした内的連関を持つ百人一首の性質が「実」に相当すると考える事ができる。

ところが堀河院(1079-1107年)御時百首和歌堀というのが日文研のwebにあるのだが、6部建てで1601首ある。16人撰ということだから一人100首で最後に1首を加えたことになる。ところがこの数1600というのは上掲の拙著p185で取り出した「表32;万葉集古今和歌集新古今和歌集の歌数の一貫性」にでてくる新古今和歌集の全数1979のうちの基数1600に相当し、残余が379であるから360+19、あるいは19*19+18を導くことができ、六曜を強く示唆すると拙著では結論づけたが、1601との差は378(=27*7*2)だから数19の目はきえる。
堀河百首(堀河院御時百首和歌) 
(長治二年五月-長治三年三月)((1105年6月頃-1106年4月頃))
堀河百首 春  320首
堀河百首 夏  240首
堀河百首 秋  320首
堀河百首 冬  240首
堀河百首 恋  160首
堀河百首 雑  321首
合計       1601首    
堀河百首 異同歌 ー


こうなると百首で歌100であるべきなのか、101であるべきなのかの考え方も苦しくなる。そうなると百人秀歌の前に置かれてあるべき序文(要約)を是非とも閲覧したくなる。もしも序文(要約)が欠けていれば、単なる障子紙への散らし書きにすぎず編纂意図をもつ歌集とは認めがたいとなる。神奈川のopacでリクエストしたが、手元にくるのは来週になるだろうから週末の旅行明けに検討しよう。