『口語訳 古事記』

 はじめて、とおして古事記なるものに目を通した。理由はいろいろあるが、直接の契機は『逆説の日本史』と吉野裕子氏の「蛇神論」であろう。初心忘れるべからず、ということで三点をメモする。

大八島の成り立ちだが、
 本州と壱岐の島が同格というのはちょっと納得がいかない。これは「島」ではなく「8つのヤマト」を並べたと考えると素直に納得できる。そして本州はいくつかの山が神格をめぐって議論の的になってきたのではないだろうか。古事記では「三輪山」が中心におかれるが、これは天武王朝の考えであって、人心を完全には掌握できていなかったのではないだろうか。
 当時だって山としては「富士山」が圧倒的威容を誇っていたはずだし、出雲大社と同緯度にあることを「偶然」で片付けて良いわけない。さらに伊勢神宮へ材木を供給する木曾の中心にある諏訪湖の水系全体が山であるわけで、この点も当然考慮しなければならない。ここまで書けば「火の山」「氷の山」そして「三輪のへヒ山」の三山が連想される。

②「主ぬし」の卓越性。
 五柱しか登場しない。アメノミナカヌシ、オオクニヌシ(スサノヲの裔)、コトシロヌシ、オオモノヌシ(三輪山)、最後に雄略天皇の前になぜか出現したヒトコトヌシ。後代になると「主」は「おぬし」「あるじ」となってとても神として敬われる存在ではなくなる。とても面白いことだと思った。

③とにかく始原は「主ぬし」から、
 とすると、アメノミナカヌシの両脇に位置するタカムスヒとカムムスヒもやはり特別ということになる。とすれば「タカ」と「カム」の対句が日本語ではとても重要だということだ。どちらも漢字でかけば「上」。アメも「天」だから、やはり「上」。つまり「上概念」について少なくとも三つを明確に別々に定義できなければ日本の思想史は始まらない、ということになる。