『龍の棲む日本』

 中世までに成立したと思われる「行基の日本図」と17世紀初頭に成立したと言われる「大日本国地震の図」の対比を軸とした国土図論である。もちろん、蛇神論考察の一助として読んだ。本書の主題は日本、あるいは日本の国土であるから忠実な読者というわけにはいかない。だから、あくまで蛇神論のためのメモである。

①後者は絵暦と思われ、さまざまな情報が並べられているが、中心図は海に棲む龍あるいは鯰の頭をもった蛇のような胴体によって囲まれている日本の国土である。東が図の上部となっているが、これは平安時代以来用いられてきた「日本国は独鈷」図像における上端=東を踏襲している。上部には「鹿島神宮の要石」と日月に対応する龍の目が置かれている。背びれは12枚で「いろはにほへとちりぬるを」と正月から十二月までを対応させてあてがっている。ちなみに鹿島神宮常陸国の一宮で、北八つ・赤岳と同緯度。中世に造られた江戸城は富士山とこの社の直線上に位置する。(100万分の一の国土院の地図上では)さらに加えるとこのような絵暦はしばしば禁制品となりつつ、復活し続けてきた。当然地図は第一級の軍事機密だし、暦は支配権の象徴でもあるのだから、図版によってはお上の逆鱗に触れることになっても不思議ではない。一方で旧暦は暦がなければ月の大小や閏月がわからないのだから暦の販売は中止できかったはずである。
②中世までに日本中の主な洞窟には「龍」の名称が付けられ、日本中があたかも龍の巣窟の感じすらする。そんな中で確かに地震の原因としての龍というイメージが形成されていったはずであるが、近世以降の地震の原因は「鯰」になる。
③結局日本では、「龍」は「ヤマタノオロチ」から始まり、尾張名古屋の「金の鯱」になって昇天した、と考えるのが合理的なんだと思った。近世とは治山治水の工事がすすみ山はもはや「水神・龍」の棲むところではなくなっていたのだ。残る「荒ぶる神・龍」は「鯰」となって人々に恐れられつつも愛される存在になったのである。こう考えた時にアンコールワットで出会った七つとも九つとも言われる頭をもち、その尾も同じだけの威容のある「ナーガ」の彫像と名古屋城の「金の鯱」のカタチがほぼ相似形をなしていることの必然性が腑に落ちた。中国の史書に明記されていることで多くの日本史の書物から抜けているのは、中国が日本を蛇を崇拝する人々、すなわり東夷と定義していたことである。当然中国王朝の風土観は「西→南→東」であるから、日本が「ナーガ」の頭ということはありえない。つまり日本は「ナーガ」の尻尾なのである。このことを聖徳太子も天武朝も受け入れることが出来なかったが、家康は「それでよし」としたのだ。
④「蛇の尻尾」から「鯱」へ、さらに、この図によれば龍の尻尾はすなわち頭であるから、鯱の尾と見えるものは龍の頭でもあると説明できる。これこそが倭から日本へ、という文明開化の実なのだ。「倭→やまと→日の本→日本」という名前の変更の底流にはこのような苦しみがあったに違いない。だからこそ日本の思想史はいち早く相対主義を根本義におくようになっていたのではないだろうか。もちろん相対主義もまた堕落と物神化から逃れえるものではないが。さらにいえば静止空間に関して相対主義を取るとしても、方向に関しては譲ることが出来ないのである。当然ここに取り上げられた二図の龍は「東→南→西」となっていることが鱗の向きから一目瞭然である。
⑤メタファー的には、「要石」は琵琶湖の竹生島でもあるし、伊勢神宮の心の御柱でもあって、それは龍を封印するものであるとすれば、日本中にうようよいる蛇と対応する全ての山岳に宿るご神体ということになる。とすれば原初の要石は三輪山ということになる。それは平安朝が天智朝という反天武系王朝であるという井沢説と合わせて考えていく時、蛇神信仰が陰陽五行や仏教の用語をまさぐりながら、自分がまるで目が見えなくなってしまったかのように聴覚と触角だけを頼りにその意味するところ読み解く、という方法でしかアプローチできないことをよく説明してくれる。
⑤更なる連想が許されるならば沖縄の御獄(うたき)信仰にまでつらなる「山=力=命」という、言葉が分節の道具に堕落する以前の古代の我々のありようまでが、ほのかに見えてくる。


■」昨日(7/1)の夜のテレビから「カンボジアの大蛇」の映像が流れてきた。子どもが大人の身長の2倍以上はありそうな蛇と遊んでいる映像であった。大蛇は珍しいとしても、探せば世界中どこにでもいるのだろうがそれをペットとして飼育する技術と伝統がカンボジアにある、とう事実は興味深い。日本で有用な蛇といえばハブの強壮剤しか思い浮かばない。インドなら音楽にあわせて壷からでてくる蛇か。