『夜叉ケ池』

  ●歌舞伎をニューヨークからの客人の所望で見に行くことを決めたのが5月。まず日時が決められ、諸般の事情でこの舞台を見ることになった。決して蛇神論のために出かけたわけではない。だが、やっぱり見てきたのは蛇神。
  ここでは二つの災難がともに水神・龍と結び付けられる。まず洪水。これは現代人でも納得がいく。説明としては太古に夜叉が池の龍神が日に三度鐘をつく限り暴れないことを誓ったから大洪水が起きないとされる。だが龍神も代が変わり現在の龍神「白雪姫」は遠くの龍神の所に輿入れしたがっているが、そうすると洪水が起きるので、眷族一同に制止され、それが出来ないでいる。
  一方、開化の世の里人はそんな昔の約束は忘れて、むしろ日照りに困り果てている。そして、若い美女を夜叉が池の龍神に生贄として差し出して雨乞いをすることになる。このような判断が一種の集団ヒストリーとして描かれるというのは戯曲が大正二年の作だからであろう。古代には龍神は何かにつけて頼っていく神様だったのであろう。
  もちろんお天道様がいなければこの世のことは始まらないが、お天道様は雨や雷のように気まぐれではないことを古代の人々も良くわかっていたのであろう。ならば困った時、何か後ろめたい時に思い出すのは当然「雨や風」であり、その象徴としては「水に棲む生き物」がふさわしくなる。お天道様は大衆的心性の帰依には向かないのである。
  こういうことは普段はどうでもいいのだが、やっぱり「記紀」を読んだりするときには、常識としていつも持っていたほうが筋を読んで行くのに間違いが少ないだろうな、って思った。
  ●竹葉亭のうなぎ;  帰りは、これも客人の所望でこういうことになった。けっして蛇神論のための選択ではなかった。だが、やっぱり蛇神論へ。
  まず「うなぎ」と「あなご」。これは「川と海」に対応する。しかも面白いことに海の鰻ではなく川の鰻である。現代人は「ウミ」といえば塩辛いとハナから決めているが、鳥の鵜は川鵜と海鵜があり平等。〈ウヲ魚さかな〉はどちらも無標。湖は「ミズウミ」で淡水が有標とおもわれるが、「水」自体が「雨水」と「湧き水」を有標としているので、「ミス」は「たまり水」の美称だった可能性が高い。
  とすれば「ウ」は「たまり水とそれに伴う生物」が古義であっったと仮定してみるのもおもしろい。鰻は流れの緩やかなところで取るので、そこを「たまり水」と認識することは無理ではない。さらに「うまし国大和の国は」は単に「生活に必須のたまり水が豊富な、八つの山からなる国」である可能性も出てくる。
  次に、鰻は「ウのナーガ」が可能性としてでてくる。まさに蛇である。以前書いたとおり、蛇はうまいものの代表となる。もちろん現在の文部省の指導下では「鰻=蛇」などという認識の子どもは大学に入れてもらえない。だからこのページは高校生以下には見せられない成人指定ページになってしまうが・・・。
  語源学のほうでは多分「うなぎ=ウのキ」という解釈が多いとは思うが、概念語については二音語がかなり古い時期に日本語に入って、そこから単音化した可能性もきちんと検討した方がいいとかねがね思ってきた。本格的に進めるためには「あま・うま」の派生語とその特徴をマトリックスで検討することになる。いずれやってみたい。
 一つ言えるのは現在では「甘い」は砂糖系の味であるが、古代は「適度な塩分」を指していたはずだということである。スイカに塩をかけると「甘くなる」という文化は日本のみとは言わないが、かなり限定された地域の文化である。古代に栄養分とミネラル分の評価が独立している文化があったと考えると「あまい⇔うまい」の関連に得心が行く。