『易・五行と源氏の世界』

 この3月から4ケ月と少しの間、吉野裕子氏の著書を読み続けた。子午線くらいは知っていたものの「たつみ」がどちらの方角を指すのかもわからない、浅学というよりは無学の身にしては大それた試みではあったが、ようやく21世紀の今とつながるべきはつながってきた気がする。
  p68の年表にあるとおり、「光源氏の一生」は五行のうちの「土」を除いた4元系の世界である。そして「六条御所」もまた春夏秋冬を方位に還元した4元系の表象世界である。それでは五行の思想は『源氏物語』と無縁なのだろうか。否。 だからこそ第二部が必要だったのだ。第二部は〈黒=庶民=土〉となっていて、これで五行が完結する。すなわち
 第一部;(白い光と水原) vs 正妻とお方と娘(葵・若紫・明石)
 第二部;(黒ひげの大将) vs 義理の母娘(玉蔓・真木柱)
 第三部;(匂の宮)    vs 縁戚〈橋姫・浮き舟〉
  光源氏が送り出した妃は「秋好む中宮」と「明石の中宮」であるから明らかに表象は「赤」。では4色表象系のうちの残りの青色はどこに配されているのだろう。葵上だけなのか。それとも六条御息所と六条御所そして紫の上に共通する「音韻むらさき=むつ」こそが「青色メタファー」の中心なのだろうか。あるいは「香り」という目に見えないものこそが「青」によって表象されているのであろうか。おそらく、その全てが「青」なのであろう。
  天皇の色とされる濃い紫に対して藤や桐の花は「あわい紫」とされる。そうであれば〈あわい青あおい葵)と繋がる。一方、〈音韻む〉からは <漢音シ紫むらさき群咲→房花→藤花と桐花→多むい→六むつ→陸奥丑寅〉が導かれる。
  『五行循環』によれば源は黒なので光源氏で「黒白」と考えてもいい。第一部を書いているときはそういう意識があって、第一部で4色の表象系を全て入れ込む計算だったのだと思うが、第二部を書きはじめて、光源氏は美しくない黒の反対にのみ位置づけられることになっていった。それが当時の人の自然な色表象の理解であったのだと思う。つまり「子=黒=源=上」という表象は定着し得ないことを認める方向に行ったのではないだろうか。
  これは「黄泉の国」の位置について定説がないこととも関連してくると思うが、「上下」概念について古代(記紀から平安・中世まで)にはかなり複雑で錯綜した認識が交差していたように思うのである。
  結局「黒ひげ」が登場したわけである。相方は「夕顔・瓢・杉」であるから、表象は「白」。これにより「光源氏」はリアリティを失った一方で太政天皇として特別な存在になっていく。

 さらに面白いのは第三部である。匂いは目に見えない。つまり無色である。あえて視覚化するならば用語は「つや」である。対する橋姫と浮き舟のメタファーは重力と浮力としか答えようがない。だが理科教育関係者に拠れば重力はガリレオニュートンの偉大なる創造力の賜物ということになっている。だとすれば、このような解釈は時代錯誤となってしまう。
  だが、さらによく考えてみれば、日本地図そのものは伊能忠敬によってはじめて描かれたとしても日本地図という概念が伊能忠敬の創造力に拠っているわけではない様に、ガリレオニュートンの創造力は「力の表現形式」において発揮されたのであって、「力」という概念自体ははるか以前から存在したと考えるべきではないだろうか。その上でもう一度「匂い」に戻って考えると「匂い」とはデカルトが「エーテル」と呼んだものに相当しないだろうか。あるいは、古代の人々は現代人よりもはるかに嗅覚や触覚が優れていたはずで地下水や鉱山でも「杖」の振動で探索していたのだから、森羅万象を「匂い」と表現してもおかしくないと思う。そして匂いの表象は「青あおぐ風あふぐ扇」である。
  ここまでくれば全体の構造が「人・物・事」であることに得心が行く。そして表層のストーリーは「公・私・情」。この重層性によって世界は統合され輪廻が担保される、という思想こそが『源氏物語』の凄みなのだと思う。