「記紀」とは何か

記紀」という図を理解するためには、それを支える地の理解が不可欠だと思う。学校で習わなかったことをまとめておく。
●目的は「大化の改新」の基礎を固めること。ここまでは学校でも習うがもっと大事ななのは外戚としての「藤氏とうし」の地位を不動にする基礎でもあったということ。それは他の氏に対する一定の保障をも意味していなければ機能しない。だから多くの地名があげられ、実際に日本全国それらしい場所には祠や祠跡、あるいは立派な神社が存在する。
●最新の国土図を確立する。「シマ」は現代でも「縄張り」を意味する以上、シマとは支配地域のことであって、モノとしての「国土」ではない。したがって国土に対応するのは「ヤマ」であると考えるべきである。そうすると富士山と阿蘇山が特別に取り上げられていない意図が重要になる。となれば伊勢神宮についで重要な出雲大社が鍵になるが、そこで富士山と出雲大社が同緯度である事、その真ん中に明日香・平安京があることが重要な事実となる。
●そのことを素直に読めば、大和朝廷の出身地は西国であり、その後の国土の拡張について「東進」という概念で文字化される。一方で、明日香の東南に伊勢神宮をおき、その造営方法の様式化により、火の山・不二のみならず氷の山・木曾御岳が来るべき国土の象徴として位置づけられる。これは北方制圧の意思表示でもある。氷の概念を確かなものにするために出雲には「ひい河」がおかれ火の山・不二と非対称なバランスを演出することとなる。さらにヤマタノオロチ伝説がこのイメージを強化する。
●我々は国境線といえば海岸線を思い浮かべるが、海岸線ならば犬吠崎が本州の最東であるので、鹿島神宮が、あそこにある必然性はない。しかし山頂こそが国土を意味していたと考えると「八が岳」の東の延長線としての必然性が理解できる。さらに現在学校で習う「東」よりは「東北=丑寅」のイメージが強いものと考えたほうがすっきりする。これは火の山から日の国へと来て、それをそのまま固定するのではなく、氷の山重視への方向転換の意図があったことによると考えることができる。つまり、外征よりも内政、つまり治山治水事業の重視を意味する。それにより稲作経済の方向をより明確にしたのではないだろうか。
●漢字を用いて書かれているが、当時はそれを文書館に保管しっぱなしにするつもりはなく、繰り返し音読して実効支配を強化する意図があった。つまり音韻イメージも重要な技術要素であった。
●音韻で特筆すべきは「ふし」である。少なくとも5つの異なる意味をもつ漢字をつなぎ重ねて統合する役割を持っていた。
①森羅万象;上昇・下降⇔桐とう藤
②コト;重力→振る・伏す
③カタ;色つや→藤→実用の葛に変わる新しい臣の象徴(あわい紫)
④タカ;節をもつ高い木→竹(中国からきた珍しい木)
⑤オヨぶ;歌の節→節目→組織構造→とう遠(世・代)
  隠されたもの① 火の山〈阿蘇山と富士山)
  隠されたもの② アマ・オモ生命の始原あま海女うみ潮の干満と夜中心
  隠されたもの③ 縄文弥生の土木技術civil engineering→旧の出雲大社
  隠されたもの④ 日本古来の葛と楠
  隠されたもの⑤ 玉蔓・瓢など海の道から来たアフリカ原産の文物(およ・もの)
  ずっと天武朝の「藤原京」が「藤原氏」に私物化された過程が謎であったが、次の音韻によって一つの仮説が浮かんだ。すなわち、〈桃源郷とうげんきょう藤原京〉。小学生の頃見た宝塚の『光明皇后』では確か「藤氏とうし」であって、〈藤原氏ふじわらうじ〉ではなかったはずだ。手元にある万葉集の原文は「藤原宮」であるから「とうげんのみや」が皇居で、都は「藤原京ふじわらきょう」というすり替えは容易だったはずだ。