『山の神』−山と森−

 たぶん柳田国男によって特別なkeywordになったと思われるが、同じ題名の本は二冊ある。著者は共に女性だが、一人はドイツ人で日本に長期滞在記録のない高名な民俗学者ナウマン。一人は吉野裕子氏である。方法も対照的である。一方は世界の中の日本で、他方は記紀の核にある中国陰陽五行思想記紀の底に横たわる古層の蛇神信仰。
 ナウマン自身は序で、大事なのは若い頃の仕事で行ったさまざまな現象の対比自体ではなく「さまざまな観念や習俗に発現している宗教的思考」であると言っている。そして吉野氏の仕事がそれにあたる。宗教的思考は民族の歴史に寄りそい民族の言霊の助けを得なければ追い求めることは無理なのである。ナウマンの著書は筋がはっきりしているので、著者が日本語話者でないことの限界がよく見える。そのことは氏の著作からにじみでてくる執拗なまでの音韻へのこだわりが、翻ってこちらに作用して来ていることを意味する。
●p19山と森  山は浜と対。だから山は海から遠いところで、日本列島では必然的に高いところで一般的には木がうっそうとしている。高いことだけを強調する時は〈岳たけ〉を用いる。似た対語に〈すま・しま〉があるが、これは〈い〉を加えて〈すまい・しまい〉を作るとはっきりするが〈住居・住居の終わり〉となり、定住生活後の語彙。森は林と対。〈林はやし生やし〉であるから人工林、あるいは有用林。したがって森は自然林で音韻イメージの〈盛る・銛〉より、弓矢の前の飛び道具である銛を作るのに必要な木の塊をさす。現代的意味は広辞苑にあるとおり〈うっそうとした木の塊〉。
  ついでにスーパーの〈もやし〉と関連付けておこう。一部で流行の〈萌え〉と死語の〈水盤もい水〉と並べてヤ行四段活用を仮想すると林と森のイメージが重なってくる。とにかく水蒸気がたっぷりなければならないのである。だから〈林・もやし〉という図を囲む地ははたっぷりの水分。そして水盤を伏せておけば山の形になりそこに水分がたっぷりあればそこを〈もい〉ということは自然だ。だが新しい語彙を必要とし、それを発明する力量をもった人々が〈もい・もり〉の対立を生み出したのだ。そして森は木の塊の意味として歴史をとおして確定し、一方の〈もい〉は「水」や「蒸し」に置き換えられ死語となった。だが〈動詞もる〉は現在でも全く逆の意味を持った同音反対意味語である〈盛もる漏〉となる。仕掛けは主格は液体で、目的格は個体に割り当てられているからである。それで、現代人が正反対だと思う概念が同じ音韻で伝えられてきたように、みえるのである。こういう例はまだみつかる。
  反対概念といえば〈音韻も〉は〈燃やす〉にもつながる。つまり、五行の中の三つ〈水・火・木〉が同音で伝えられていることになる。後追い説明は二つ考えられる。
   ① 木は銛の原料である前に、まず燃料であった。
   ②ある時期の日本の指導層が漢字音〈木ぼく〉を正音〈木も〉と翻訳した。その時期とは〈門もん〉〈飛び道具もり〉〈盥もい〉が最新テクノロジーであった時期で、〈湯気も炎も木も上昇する〉という認識が指導層にとって魅力的な概念であった時期となる。もっと言えば五行のうちの「金」に馴染の無かった時期である。ここでは詳述しないが、学校で習う「呉音」は歴史的実在物ではなく、ある時期の日本人が日本語の正音として受け入れた音韻であると考えるべきだという事例にいくつか出くわしてきている。

  次に〈もり・もれ〉について考えてみよう。古典文法で〈連用・已然〉といわれる形だが、ここで〈盛り・漏れ〉が画然と分かれる。ではこの二字の漢字は何が違うのか。この二字については日本語教育を勉強し始めて以来ずっと考えているのだが今のところ〈繰り返し・実現〉の対立でいけるかと思っている。こう仮構することで「雨漏り」が「雨漏れ」ではなく、繰り返される現象であることも説明できる。このことをもう少し大和言葉に即して言えば〈コトとモノ〉の対立である。
  学校文法では命令形は古典文法の已然形のみに関連付けられている。だが私が外国籍のこどもに言うのは「命令形は男の先生とおまわりさんと強盗しか使ってはいけません。特に社長になりたいなら使ってはいけません。人の上にたつほどの人は自分の願望をストレートに表現してはいけません」である。女の先生なら高圧的な先生でも体言止で、普通は母親が使う「連用形」である。已然形による命令は、手前勝手な願望の発声に過ぎない。
  それがはっきりするのは独り言においてである。だからテレビに向かって競走馬を応援する時は「行け、行け」なのである。「行くこと」では馬には理解不能。「お行き」や「行って」では強さがない。でもお父さんは決してテレビに向かって馬に命令してるわけではないのである。願をかけるときはその瞬間に意識を集中するのである。だから「已然形」になるのである。繰り返しという概念とは反するのが願掛け。そう、だから〈エ音止〉なのである。
 仮定法と已然形の関係も初級文法書の見取り図は甘い。だから以下の文型の区分があいまいになる。
 ○練習すれば上手になる。(激励)   ×練習しなければ上手にならない。(恫喝)
 ・練習すると上手になる。(他人事)   ○練習しないと上手にならない。(忠告)
 ・練習すると上手になれる。(他人事)  ×練習しないと上手になれない。(恫喝)
     cf.練習しなければ上手にならないことは理である。(文書)
 已然形が願望を中にもっていることがわかれば、○がついた二つの文型しか会話では使わないことがはっきりする。そして思想史的には〈願望=祈り〉なのである。だから×をつけた文型は形式から自動的に〈呪い〉になってしまうのである。だから普通の母親はこの文型をつかわない。逆に言えば、子どもを恫喝する時には効果的な文型である。恫喝とは呪いなのである。
  ここまでの分析ができれば<可能形>もまた<已然形>にすぎないことも理解できるはずである。「ら入り言葉」とは已然形の化粧cover-upした姿に過ぎない。ある時期の日本の指導層が書き言葉や社交辞令において已然形を嫌っていたとすれば、彼らは現在の我々よりはるかに鋭い言語感覚を生きていたということである。
  国語学が日本語学と看板を変えただけでは駄目なのだ。音便をはじめとする音韻交替などの西洋文法由来の概念を一回すべてご破算にして、日本語の古層に横たわる音韻対立のありようをきちんと見極めていく作業が求められている。それは現在の我々の日本語の中に過去の祖先の祈りと呪いの痕跡を跡付けていくという作業となる。それが「宗教的思考」を追い求めるということなのである。本来の国語学とは日本語を世界に対して啓いていく作業だ。それが完成したとはいえないが、急務は宗教的思考の復元にある。

●p27神の名
●p31動物の主
●p112案山子

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