語頭の「ユ」

  先に書いた「ゆ湯」は重要な語彙だが、派生語は少ない。それに対し「ゆか」は重要な派生語を生み出している。「生み出している」というのが擬人的で科学的でないとすれば「重要な語彙構造をなす」である。

・縁ゆかり ・結わない ・ゆかず、いかせる ・いわず、ゆわせる
・裄丈 ・結って ・ゆきて、いって ・いって、ゆって
・木綿ゆう ・結う ・行ゆく、いく ・言ゆう、いう
・故ゆえ ・結え ・ゆけ、いけ ・いへ、ゆえ

  一見、このような関連付けは筆者の強引な主張と思われるだろうが、織物の歴史を紐解けば納得されるはずである。織物というと、現代では織り機がないと作れないと思うが、一本の棒と長い紐があれば平織りの布は作れるのである。古代のことを考えるときは、中国伝来の高機(たかはた)に対し縄文時代から使われてきたといわれるアンギンやイザリ機も重要だが、特別の道具がなくても、いつでも、どこでも布を織ることができた、という事実を忘れたくない。そうすると「木綿」と書いて「ゆう」と読ませる意味もよくわかる。素材だけでなく作り方もまさに「結う」ことの繰り返しなのである。以下は私がポリ紐で結った「結い」である。

  「木綿・結う」が「織物」の古語であるならば、当然「編集」の意味を持ち、そこから「縁ゆかり」「ゆえ故」と「ゆい由」がすぐにも導かれる。そして「言」もまた長く繋いでいくものである。つまり「結う」ものである。
  なお、床(ゆか)も現代人は木の床を思い浮かべてしまうが、土間にゴザを敷けば立派な床が出来る。しかもそのゴザがきちんと平面を作っているか、「ユガんでないか」厳しい目で製品をチェックしていたような気がする。さらには「夕(ゆう)」も土間ではなく床で取るちょっとハイソ(high society)な人々の夕餉にまで繋げることができる。
   そして〈ゆか床とこ〉を介して、我が国の世界観の重要なkeyword「常トコ処」に重なっていく。
  さらに〈ゆき裄・桁けた〉の関係も視野に入れておこう。漢字「裄」は国字で、「桁」が本来の字である。そうすれば「行く」が「結う」と語頭を共有するのも得心がいくはずである。
 さて、ここで三つの動詞の「て形」をみてみる。
  「結う→結って」「ゆく→ゆきて」 「いく→いって」「言う→言って」
  日常会話では動詞の終止形よりは「て形」を使う方が圧倒的に多いことから、動詞の原形は終止形よりは「て形」に求める方が理にかなっている。そう仮構すると「炒って」と「ゆすって」が関連語彙にとりこめる。
  日本人の大好きな「ゆるゆる」がどういう語彙構造の中で息づいているのか、今一わからなかったが「炒って→ゆって→ゆすって」と考えることができる。そして「ゆく」は文語にのこり促音便を取らないこと。逆に「言う」は「ゆ・い」の区別なく促音便をとって日常語に残っていることも面白い現象だ。さらに「結う」「緩む」「ゆする」が良好なイメージを保持したまま意味を限定して残ってきていることも興味深い。さらに「射って→ゆって→弓」もでてくる。そうすると逆に「鋳って→ゆって」の連想が起きないことにも理由があるのかもしれない。
  上のような考え方は現在の日本語学の音便の定義と合わない。なぜならば現在の体系は終止形があって、そこから連用形が導かれ、さらにその一部が崩れて音便形があるという認識だからだ。だがこういう認識では日本語の語彙構造がいつまでったても見えてこない。日本人が「語源」が大好きなのはバラバラに見える単語の間に何らかの関係があるはずだと皆がおもい、それを知りたいと思っているからだ。
  だが現在のところ、日本語の中に語源を求めるとすれば「うなぎ→むなぎ→胸が黄」という方法しか出てこない。それに飽き足らない人が自分の知っている外国語の中に似た音節と意味を探してきて喧々諤々やっているが、それでは日本語の語彙構造はいつまでたっても見えてこない。語源は語彙構造から出発して語彙構造に帰るのでなければ意味がないと思う。大事なのはマトリックスなのだ。認知言語学はこれを「イメージ・スキーマ」と呼ぶ。
  「母音交替」というわけのわからない専門用語がある。交替も対立も指している現象は変わらない。その意味付けが違うのである。「交替」は「自然に人々の努力や曲折なしに実現した」かのように認識することである。反対に「対立」は「人々の努力の渦中にある事象」として記述することである。たとえて言えば、現在の大多数の言語的事実だけからは滅び去ってしまったような言語的事実も「人々のmotivationがあるならば将来の復活の余地があることを忘れない」という立場である。
  現代日本語でも語頭「い」の動詞は数が多い。上に挙げた以外に「入る」「いでる」「要る」「居る」「沃る」「率(い)る」が広辞苑にある。これより古代の動詞は「イ」から始まったと考えることができる。詳述はしないが日常語では「する」よりも汎用度の高い「やる」のすぐ隣にある音韻「イ」が動詞の祖形であると仮構することは突飛ではない。となれば普通の感性があれば「い・あ対立」が関心事になってくるが、そういうことを論じた普及書にはお目にかかったことがない。
  しかし「終止形幻想」を克服して「て形」を動詞の祖形と考えるならば動詞の祖形の中核が「いって言ゆって」にあることは明瞭だ。なぜならこの動詞にあっては「い・ゆ並存」が現在まで続いているからである。「行く」のような文語・日常語の関係もはっきりしないで並存しているのは音韻の正常な、つまり自然現象的な「ぶれ」の範囲内に「い・ゆ」があるからである。その上でこの自然を土台に、あえて「い・ゆ対立」を概念化し、意味の限定された新しい語彙を、「語頭い・ゆ」音の周辺に長い時間をかけて作り出してきたのが日本語の歴史なのだと思う。


■ 書いてから気になって辞書を調べたら とありました。つまり英語話者にとって、の隣に<主題>ないし<繰り返されるパターン>があるということである。(2006/08/06)