形容詞の分類と「多い」

  前回、「怖い目」と「青い目」を対比してみて、気がついたのだけど、学校で習った〈しい形容詞〉と〈い形容詞〉の分類に「怖い」は当てはまらない。やはり派生語を作って調べなくてはきちんとしたことは言えないわけだ。例をあげると。

・言いたい ・言いたそう ・言いたがる
・悲しい ・悲しそう ・悲しがる
・怖い ・怖そう ・怖がる
・重たい ・重たそう ・重たがる
・重い ・重そう ・ー
・大きい ・大きそう ・ー
・多い ・多そう ・ー
・赤い △赤そう ・ー
・甘い ・甘そう ・ー
・美しい △美しそう ・ー

   ここで気がつくのは「赤い」も変わった形容詞だということだ。「赤そう」はwordでは変換可能だが、私には使う場面がすぐには思いつかない。一方「多い」は形の上では「重い」「大きい」と変わらなく、度量衡の形容詞の三点セットを作りそうに見える。だが、さらに例文を作っていくと、三点セットにはおさまらなくなる。

連体形 終止形 構文
・大きい本がある ・本が大きい ・この本は大きい。
・カタチが大きい本がある ・本のカタチが大きい ・この本はカタチが大きい。
連体形 終止形 構文
×多い本がある ・本が多い △この本は多い。
・多い量の本がある ・本の量が多い ・この本は量が多い。
・多い種類の本がある ・本の種類が多い ×この本は種類が多い。

   つまり、もっとも一般的な〈本が多い〉という句には〈量と種類〉の二つの意味があり、日常では、一種類の本だけがある書斎は思い浮かばないから〈量=種類〉となり、実際の価値から考えれば〈種類〉を指すと解釈するのが普通なのである。計量という専門職領域の文脈であることが明確な場合だけ〈量〉の意味で解釈するのである。
  〈×この本は種類が多い。〉と非文にしたが、〈この本→この列〉に置き換えれば〈種類〉の意味も可能である。但し〈列が多い〉と〈この列は多い〉では指示する内容が違ってくる。これは〈列=コト〉で〈本=モノ〉が日本語解釈における原則だからである。〈この列=モノ〉と〈列=コト〉、この違いが瞬時にわからないと日本語の理解は難しいことになる。
  次に、「うんと」「たんと」「たくさん」「いっぱい」の相違はどこにあるのだろう。

×うんとの本がある ・本がうんとだ ・この本はうんとある。
×たんとの本がある ・本がたんとだ ・この本はたんとある。
・たくさんの本がある ・本がたくさんだ ・この本はたくさんある。
×いっぱいの本がある ・本がいっぱいだ ・この本はいっぱいある。

  「たくさん」だけが「の」に支えられて連体詞をつくれるが、他の三つは連体詞をつくれず、動詞にかかる。四つとも一意は〈量〉である。つまり話し手の素直な実感がベースになっていて、〈多い〉に対して、〈大きい・でかい〉のような関係を持つ。
  面白いのは「いっぱい」。素直に考えれば「一杯」が語源となるが、現代人には〈お椀一杯〉とか〈コップ一杯〉ぐらいの用例しか浮かばず、「半分よりは多いいけど・・・・・」が実感である。ところが古代史を勉強したら、古代には〈壷=全=宇宙〉というような観念があったらしく、一説によると仁徳稜のような「前方後円墳」は「壷墳」と呼ぶべきでカタチも方形ではなく台形だし、何せ大きな壷がたくさん発掘されているらしい。それに日本列島は世界最古の土器を出土しているのである。我々の祖先が長い間「壷」を象徴化して世界を記述していたのだとしたら、〈壷一杯〉は途方もない量を示していたことになる。
  どうしてこういうことを考えるかというと、ベルグソンの「時間と自由」を読んでいた時に翻訳文の日本語についていくことが出来なかったのだが、感覚表現についての日本語の実態について明確な意識が不足しているからではないかと考えたのだが、こういう作業を積み重ねることで「時間と自由」を読みこなせるようになるのではないかと思えてきた。


■ 『後学のために
・いい ・ー ・ー
・よい ・よさそう ・ー

・ほしい ・ほしそう ・ほしがる
・要る ・要りそう ・ー
・ない ・なさそう ・ー
・ある ・ありそう ・ー
・ありがたい △ありがたそう ・ありがたがる

・よしたい △よしたそう △よしたがる
・やめたい ・やめたそう ・やめたがる
・やりたい ・やりたそう ・やりたがる』



■『 面白いことに「いっぱい」は連体詞を作れないが、「一杯」や「スプーン一杯」は連体詞をつくれる。だが構文を作ると直接一般名詞に掛かるのではなく「分」「ほどの」のような「程度」を意味する名詞にしかかかれないことがわかる。
・一杯のご飯・これが一杯分だ ・これは一杯ほどのご飯です。』