『古代史の未来』

 古田武彦の著作。あんまり「九州、筑紫、九州、筑紫」と出てくるので鼻についてきたが、detail へのこだわりには共感。
11、神武弁
  神武天皇はどっちの言葉を使ったのか?
    ・おまえのツラなど見たくもない。
    ・おまえのカオなど見たくもない。
  こういう細部から歴史を復元する事って大事だと思う。とくに本を書くような男の人が気にしてくれるのは嬉しい。そして出てくるのが「上品 vs 下品」、それを「征服者 vs 被征服者」という「歴史感覚」につなげていく。これは社会言語学の「いろは」だ。
  だが私は日本語の歴史は、それ以外の仕組みをもっているように感じる。それが「言霊」であり、「正音」だとおもう。つまり上品や下品、征服者と被征服者といった二分論を止揚する仕掛けとの一つとしての音韻理論を支配者が開発してきたということだ。
  それを支えるのはインド由来の音韻学だと考えるしかない。日本が中国の圧倒的な影響下にありながら、「かな文字」という準表音文字をもち、それをもとに勅撰和歌集を編んできたということは、そういう仮説をおかなければ説明できない。それは平安時代に始まったのではなく、稗田阿礼が登場する記紀時代のはるか以前から始まっていたと考える方が合理的なのだ。稗田阿礼は記憶の優れていた人というだけでなく、正しい音を発音し、認識できる人だったはずだ。太安万侶はそれを正しい漢字に表記する役目を負っていたのだと思う。
   日本語史からみると、平安時代とは正音が正字体系として完成すると同時に、漢字主義によって正音が政治の表舞台から消えて、和歌に閉じ込められた時代だといえる。だが母語とは「母の語りかけ」である以上、正音が政治の深層からも消えることはありえない。お釈迦様だって生まれてすぐに字は読まなかったはずだ。だからこそ徳川は「能」を式楽として手厚く保護したのである。謡の勉強をすると「旧かな」の通りに発音することを練習する世界があることを知る。
   「手をぬぐう」だろうが「手のごう」だろうが、そういう直示できる物や動作の発音はどのみち人により状況により「ゆれ」ているのだからどっちでもいいが、支配や信仰にかんする概念語は「どっちでもいい」というわけにはいかない。「天(あま、あめ)」は「空(そら)」より品があるというのは現代の我々の感覚であって古代の人は意味の違いを認識していたはずだ。
  ・アマてらす大み神→視覚的に捉えたあまねき実在
  ・ソラみつ大和の国→認知言語学でいう空間メタファー
  ・タカみムスビの神→イノチの伸張方向。ベクトル概念をともなう「上方へ」を意味する。
   ここまできて、学校で受けた理科教育が我が国の支配層は無能無知でニュートン力学の移入なくして「力ベクトル概念を」を知ることはなかった、というメチャクチャな歴史認識を注入してきたことにも思い至った。ベクトル概念をしらなくても「認知言語学」がいうところの「繰り返される身体経験」と対話できる人は、いいかえれば内省できる人は、稗田阿礼のような文盲であっても概念としての「ベクトル」を古代から正しく用いてきているのである。
  いや、むしろ古今東西の文字中毒症候群の高学歴男性こそが「ベクトル」を恐怖し、それを禁制扱いにしてきたのだ。なぜならば「ベクトル」は推論の第一である「三段論法」を無効化するからだ。だからこそデカルトは「ベクトル概念」だけでなく「因果律」という推論の第二形式をうちたてるしかなかったのである。

24、二倍年暦
   ずっと「度量衡概念」の推移を考えているわけだが、当然「数概念」の推移の問題にも関心をもたざるを得ない。歴史を考えるとき、いきなり大きな数が使われるようになったとは考えられない。このことをデカルトは小さいものから大きいものへと推移すると考えて時間を決めるように言っているが、誰でも良識のある人はそう考えると思う。
   これまで、日本人が「10」を使いこなす前に相当長い期間「6」を最大と考えていた時期があったと考えざるをえないと、思っていろいろ考えてきたが、確かに1年を「ダブル6ヶ月」と考えればいいわけである。こう考えることで特に昔の文献で異常に長寿の人たちのの年齢の問題が腑に落ちていく。
  だが、この二倍年暦は、文明の発達段階に占める重要性は低いと思う。ローマ暦では春から秋までは月を数え、冬労働しない時期は月を数えない時期があったという。世界中似たような方法で暮らして来たのではないだろうか。だから二倍年暦は、まだ10を越える数を使いこなせない社会が「正歳12月」という外部文明に触れたときに一時的にとる、あるいは外部向けの縫繕策に過ぎないと思う。