「通鼻音」と「逆語序」

    宣長たちは実際の「通鼻音」の音韻をどのように聴きとっていたのだろう。〈牟〉〈爾〉〈毛〉〈武〉の他に、〈かな・ん〉〈かな・も〉〈かな・む〉〈カナ・ニ〉〈悉曇・うんむ〉が候補と上がっているようだ。とすれば〈m、b、n、k、g〉の有声鼻音の全てが可能性として出てくる。宣長が例示している〈丹爾波→丹波〉から考えると、間に〈たむんば〉を想定してもおかしくない。ヘボン式では〈御殿場;gotemba〉だから、そこにも〈ごてむんば〉を復元することが可能だ。とすれば第一候補は〈ムン〉と〈ンム〉。〈k、g〉の方は私自身〈か行鼻濁音〉がしっかり身についていないので後で考えるとして、先に行く。
   むしろ平安時代にもどって〈阿吽〉と〈南無〉を対比してみたい。まず、〈南無〉の元は梵語のnamasで、英語 amen とほぼ同じ意味。使い方は「逆語序」である。

・仏教 ; 南無、帰依する仏の名前。
キリスト教 ; 信仰の記述、amen。

ここで問題になるのは悉曇学を学んでいた当時の人たちが、逆語序にきちんとした意味があると考えた可能性の有無。もう一つは、〈nの位置〉である。ここでも逆語序が出てくる。しかも、それを介して〈阿吽〉もつながるのである。今回調べてみて、アッと驚くタメゴッローだったのは〈吽;牛の鳴き声;モー〉だった。

[n・amas] [ame・n]
[n・am] [amun]
[南無] [阿吽]

    当然、この問題は室町期にキリスト教に出会った悉曇学の人々にとっても驚天動地の事実だったに違いない。そしてそれに対する研究は幕府のキリスト教禁教によってセクトの奥深く閉じ込められていったはずである。だが、将軍すら西洋の文物の優れていることに心を砕かれているのであるから、そのことから目をそらすのは武士の本分にもとることでもあったはずである。以下備忘録。

 893 ・道真、新選万葉集
 893 遣唐使廃止
 905 古今和歌集
1002 枕草子
1192 鎌倉幕府
1202 新古今和歌集
1614 高山右近ら追放
1702 奥の細道
1709 新井白石、シドッチを尋問
1763 ・真淵と宣長の邂逅
1867 大政奉還
1947 ・手塚治、デビュー

    私自身では、『阿刈葭』を読んでいないし、読む能力もない。だが断言できる。宣長も秋成も「南無」「阿吽」だけは決して論争中に例としては持ち出していないはずだ。もし持ち出していたら両人とも筆禍事件に巻き込まれ、彼らの著作物は残らなかっただろう。