「JISの字種の拡大」と『阿刈葭』

    友人からのメールで知ったのだけど、JIS変換で英字の小文字エルを入れてから、かなを英文字入力すると「つ」「やゆよ」以外でも、小さいかなやカナを入力できるようになっているそうだ。まだ全部のかなが変換できるわけでなく私が確認できたのは「ぁぃぅぇぉ」「ァィゥェォ「ゎヮ」「ヵヶ」。
   それが小学生の女子の間で大流行で、それを見た大人が困惑しているというのが記事の趣旨のようだが、JISが小学生の女の子のためにこういう字体を用意するはずがないから、別のきちんとした理由があるはずだ。ここで、自分の情報が遅れているのを告白するようなものだが、鼻濁音「が、ぎ、ぐ、げ、ご」も半濁点に変えた字体がJISに組み込まれていることを、つい最近知ったばかりだということを思い出した。
   とすれば一つの仮説として、JISは「話すように書ける日本語」を目指しているということが考えられる。それは最近やたら旧字体漢字が目に付くようになったことと共通の根から出てきているに違いない。なんでも、「ありのまま」「見たまま聞いたまま」に運用することが進歩だと考えているのだろう。だが、本当にそうだろうか。宣長のいう「万物の音と人の音は違う」という一言を噛みしめて、噛みしめても、なおそれらを技術の進歩と考えるべきなのか、一度じっくり考えてみたい。
   例えば、〈サイトウ〉さんの〈斉〉は異体字が10を越えるようだが、人によっては同窓会から職員録まで厳密に戸籍と同じものを要求する権利があると思っているらしい。あるいは〈沢〉もある時から人名漢字〈澤〉が認められた途端、自分の名前に〈澤〉を使うことを暗に要求する人たちが増えた。それと歩調をあわせるかのように〈ふかさわ〉〈きょうはし〉などが、正しい読み方、ふりがなだと主張する本が目立ってきた。
    結局、私たちは、〈正〉を〈同一〉と誤解しているのだとおもう。つまり〈正・誤〉という、これまた日本の学校教育の最高イデオロギーに忠実な結果の産物なのだ。彼らは、〈同一〉なものなどこの世の中に一つもないことを知らないのだ。もしそのことを知っていれば、多少の異同にいちいち目くじらを立てることはなくなるはずだ。つまり〈澤〉と〈沢〉の二字がある以上、どっちを使ってもいいのだと思えることが大事なのだ。あるいは濁点というものが公式に認められた以上、濁点表示文字も公認されるようにしていくのが共時的には合理的なのである。そうでないと、今度は〈正・邪〉という対語しか思い浮かばなくなってしまう。その先には〈正道・邪道〉といった二元対立の世界が広がることになる。
    だから、〈正〉の反対は、〈自然〉なのだと考えておくことも大事だ。〈自然物〉とは〈道なき道〉であり、〈非効率的なartifact〉なのだ。そうだとすれば、その時その社会で、つまり共時共同体にとっての標準を定めて、あまりに非効率に陥らない配慮がもとめられる。それは、最大多数だけでなく、新参者である子どもの教育への配慮、そして国際化の時代であれば外国人に馴染みやすい日本語という視点も欠かすことが出来ない。
     最後に簡単にふれておくと、〈自然〉が〈効率〉に反旗を翻すべき時がある。それは、効率あるいは便宜のために共時社会によって定められたルールが、社会の変化から人々に対する桎梏となってしまった時だ。その場合の旗印は「身体、経験、良識、直感、無意識」などが多い。



  ということはさておき、日本語について本格的に考えていこうとする場合は、こういう字種の多様化はありがたい。たとえば先日取り上げた『阿刈葭』。これにルビをふると「かがいか」となって4モーラ語であるかのように思いこんでしまう。だが「かがぃか」とルビをつけることが出来れば漢音の印象がのこり、3モーラ語として処理しやすくなる。
  そうすると我田引水気味ではあるが、『阿刈葭』は上から読んでも下から読んでも「かがぃか」となり、回語、つまり逆語序をもたない語となる。事実漢語に通じていた宣長も秋成も、そのようにこの語を聞き取っていたはずなのである。