日光と東照宮

    昨日は会社時代の知り合いと日光へでかけた。午前中に中善寺湖畔を散策し、下で〈湯波〉を堪能し東照宮へ。中禅寺湖畔では山肌は冬景色だったが、湖畔を縁取る真っ赤な紅葉と真っ青な空のコントラストが美しかった。

   車中で「鎌倉と東照宮は同じ子午線上にあるんだよ」と知識を披露したら、皆一様に「ウッソー」。私が小さいころから見慣れてきた日光の概念図は全部、日光が東京より東に存在するイメージを与えるものだった。ここでそれが私一人の思い込みではなかったことが証明された。ほとんどが東京育ちのどちらかと言えば山の手の家庭出身のお嬢さんたちの印象は似たり寄ったりっということだ。
  そして陽明門のところまでくると中の一人が私のところに寄ってきて言うのだった。「私、今思い出したのだけど、小学校から見学に来た時、宮司さんが門のはるか先をさして、向こうは鎌倉です、といったのよ」と。  「ずーと忘れていたけど、その時、確か、スットンキョな事言う宮司さんだなと思ったのよ」「さっきのあなたの話でやっとわかったわ。宮司さんは同じ子午線にのっている、って言いたかったのね」と。

  陽明門の中に入ると、表側の左右の仁王様が「阿吽」の形をし、裏に回ると狛犬が「阿吽」とやっていた。だから仁王と狛犬がセットでどちらの柱も単独で「阿吽」とやっているわけだ。これは中の門でも同じ。今度は名前がわからないが雛壇に居る左右の武将と狛犬がまたまたセットになって「阿吽」と鎮座している。
  もう一つ、途中に石柱の囲いがあったのだけど、出入り口の両脇の柱の表側はなんの変哲もない石柱なのに、帰りに見たら狛犬が「阿吽」とやっていた。

   これは家光の時代から続いているのだろうか。それとも江戸期を通じてこういう様式が固まっていったのだろうか。いずれどこかで答えに会えるだろう。それともう一つの謎が〈ふたら・二荒・にこう・にっこう・日光>と〈東照宮・アっマテラスのミヤ〉。これもきっと因縁があるのだろう。でも、こういうことばかり続くと日本語における〈名〉に対する感情は両極端にわかれてしまう。〈胡散臭い〉と〈奥が深い〉。

   だが、ここまでいろいろ思い出しておくと、なぜ、明治になって離宮と外国大使の夏の別荘が日光に作られていったのか、それゆえ吉田首相のワンマン道路ならなぬ国鉄日光線が今に至るまで続いているのか。そして東照宮桂離宮を対比したブルーノ・タウトの政治的価値というものが再び興味の対象になってくる。公開されている旧イタリア大使館別邸の建物は桂離宮のイメージを介在させると、建築の意図がよくわかる。そうでないとヤップ島で見た椰子の葉で飾られた室内装飾との連想しか浮かんでこないのである。だが素材が杉皮であることが重要だったのだ。檜皮よりも一段低いとされる〈杉〉であることが。

  確かなことは歴史とは、このようにして引きつがれ、そして忘れられ、そしてまた思い出されていくものだということだ。

何年ぶりかの一句。 黄葛波や 日暮門は 「阿吽」みつ