公式言語

  『露伴随筆集ー言語篇』を読み始めたら、頭がエッセー・モードに切り替わらないが、ちょっと気分転換に。

  正しい日本語を体現しているかのような大新聞が「縦書き」を支えている。しかしその言論の内実が果たして日本の国民に対して指導性を発揮しているのか大いに疑問が持たれる今日この頃である。そして日本の口語規範を支えている組織であるNHKも体制がゆれている。

  だが日本の公式言語は相変わらず第一に口語である。その証は新年の宮中で行われる「歌会始」をあげれば十分であろう。当然天皇の「お言葉」とは口から出たものであって、筆先から出てきたものではない。天皇とは口語の体現者なのである。だからこそ公務とは身体を現場に運ぶこととなる。確かに和歌は「縦書き」である。だが和歌とは口唱詩なのだから、そのメモに過ぎない文字は縦でも横でもかまわないのである。どちらでも良ければ習慣に従うのが良識というものであろう。

  だが、それでは実務は円滑にいかない。それが「書き言葉」である。少なくとも日本には2000年の実績がある。そして民の日々の生活にとって、あるいは損得にとって大事なのは書き言葉であって、口約束や口証文でない。という事がコンセンサスになっているのは日本がまぎれもなく近世に入って久しい歴史をもつからだ。

  当然、書き言葉を統括しているのは律令政治にはじまる現在の内閣である。では内閣の公式言語は〈たて・よこ〉、どっちなのであろう。官報はすでに横書きである。国家公務員の辞令は昭和30年代に横書きに変わっている。こういう話をある言語学の先生と話していたら、その先生、およそ整理したことがないのではないかと思える本の山の中からご自分の辞令を意外にも時間をかけないで見つけて、見せてくれたから間違いはない。先生は縦書きの辞令と横書きの辞令を並べて私に見せてくれたのである。当然縦書きの辞令が古い方、先生の若い頃のものであった。

  日本で横書きを主導したのは梅棹氏ではないかと、私はふんでいる。もちろん氏のローマ字書き論はつとに有名であるが、内閣は氏の「横書き論」だけを相当早い時期に取り入れているのだ。

  と見てくると、大新聞こそが守旧派の牙城であり、現在、「官僚たたき」しか合言葉を作り出せない政治家のお先棒しか担げないのも無理ないとおもうのである。いろいろ新しい新聞が発行されるが、題字の横書きまでしか出来ないでいる。その言論の内容も結局は守旧の範囲を出れていないのではないか。

  心の保守主義者としては歯がゆい現象である。