「漢字かな混じり文」の次へ

   つい100年ちょっと前までは、知識人の「漢文」と、庶民の「話すように書く文」という二つの言語に分裂していた日本語のことを考えると、よくここまで来たものだと先人の努力に敬服する。それくらい漢字かな混じり文、それにルビという啓蒙道具を発明した日本語はすごいと思っている。
   でもその恩恵に浴してる我々は、それを改善していく義務も負っているはずなのである。敗戦後に行われた大きな改革が「カタカナから平仮名へ」であり、「公文書への横書きの導入」だったのだと思う。とりわけ「横書きの導入」のもっている先見性は忘れてはならない。そうでなければビジネス文書など、とうてい現在のような国際化に対応できていないと思う。第一このブログだってここまで普及していたかどうかも考えておく必要がある。
   それでは横書きの定着を待って次に行われるべき戦略課題はなかったのだろうか。あとは小学校から英語を教えれば英語ぺらぺらの日本人が育って万事めでたしなのだろうか。
   私は、梅棹氏のローマ字化の主張は、そこを考えてのものだと理解している。言語が第一に耳からはいる音韻なのだと考えれば、当然世界標準である英文字26字で十分なはずなのである。音韻が第一、というのは露伴の主張でもある。もちろん宣長だってこの原則には反対はしないはずだ。
   だが膨大な情報は文字に拠らなければ伝達不能である。この背理をどう処理するかに創造性が求められている。私の考えは平仮名の定着をもってカタカナの公文書からの排除である。外来語を音韻で導入する場合は英語での正書法を導入する。ここまで書いたところで私が前回、新聞を守旧派と断定した理由がお分かりだと思う。新聞が縦書きを続ける限り私の考えは日本社会に受け入れられないからなのである。
   
   ここで私が考える外来語は大きく二つある。一つは外国の固有名詞で、もう一つは幕末から明治にかけて作られた二字漢字語である。
   まず、固有名詞だが、私の経験で言うと〈毛沢東〉という漢字は知っているが、その読み方については中国語でも英語でも全くイメージがない。だが学校時代に英文字で習っていれば、およその見当がつくというものである。そのほうが英語の文献を読む場合も中国人と話をする場合もはるかに効率的なのである。もう一例をあげると英語の文献で Cartesian という語が出てきたとき〈デカルト〉を連想することができなかった。だが〈デカルト〉なんて文字列を習わないで〈Descartes〉 と習っていれば容易に類推できたはずなのである。
  何のために小学校でローマ字を習い、中学校で英語を習うのかわからない。カタカナは日本の庶民が英文字を解さない時代には有用だったけど、今や無用の長物と化している。

  次は二字漢字語だが、以下に中学校の理科教科書からの抜粋文と英文字改良文を書いてみる。

    教科書原文「金属であるかどうかは、特有なかがやきがあるかどうかで予想することができる。スチール缶やアルミ缶のような表面が塗装されているものも、みがくと、金属特有のかがやき(金属光沢)を見ることができる.」

   変更文「metal であるかどうかは、特徴的なかがやきがあるかどうかで見分けることができる。 steel can や aluminium can のように全体がpaint で coating されているものも、みがいて coating を削ると、metal の特徴であるかがやき(metallic luster)が現れてくる」

   変更文をつくってみると、いかに教科書の文章が日本語としてこなれていないかがよくわかる。〈金属〉〈特有〉〈予想〉〈表面〉などは普通の日本語だと思われているが、よく考えるとこのような文脈では使われないか、あるいはカタカナ語でも十分用をたせる単語なのである。それだったら日常生活で使われる用語で教科書は書かれるべきである。それが現在カタカナで書かれているなら英文字で表記すれば良いだけのことである。漢字だって日本の文字ではないのだ。
現在外国籍児童の学習支援ボランティアをしているが、来日半年の生徒にこういう教科書を使って学習させる現場に携わるのは普通の神経の人間にはつらいものがある。二字漢字語が日本の普通の子どもにとっても今や桎梏になっているのではないかと考えるべき時期にあると思う。二字漢字語は士族という漢文の素養を前提とする人々の用には役立ったかもしれないが、漢文の素養はないけど英文字は怖くないという日本人にとっては無用の長物ではないか、いやまさに桎梏以外の何者でもないのではないか、と思うのである。