〈えんぴつ、いちほん〉は間違いか

  日本語教授法では数詞の教え方が重視されている。時間は〈いっぷん、にふん、さんぷん〉、鉛筆は〈いっぽん、にほん、さんぼん〉と教えることになっている。もちろんに日本語話者には当たり前のことであり、私も何回か生徒に教えてきた。だが最近、疑問に思うようになっている。
  柔道の〈一本勝負〉は確かに〈いっぽん しょうぶ〉だが、〈一本、二本、三本〉と数えていく時は、〈いちほん、にほん、さんほん〉が正書法の観点からは正しいのではないだろうか。
  たとえば英語の city, little などは d-down といってd に近い発音をしている。だからといってcidy, liddle と発音すべきで city, little という発音は間違いだとは教わらない。つまり英語話者の99%が d と発音していても正書法は t を用いるし、t の発音を間違いとは呼ばない。そして英語母語話者にとっては、この乖離を解決するためにこそ、教室での授業があるわけである。つまり発音とは異なる字を正しく用いられるようにするのが識字教育ということである。
  それが英語のorthogrphy なのであれば、当然〈一 ・いち〉が正音・正韻であるべきであり、99%の日本人が〈一本〉を〈いっぽん〉と発音していても正書法は〈いちほん〉であるべきなのではないだろうか。それに外国人が〈いちほん〉と言っても、日本人はそれを〈一本〉と理解できるわけだし、実用上も問題ないと思われる。


■正音は清音でなかければならないか
   ここまで書いてきて、以前、「音便の訛音」のところで考えた 〈きょうばし・京橋・きやうはし〉 や 〈ふかざわ・深沢・ふかさわ〉のことを思い出した。上記の考え方にたつと〈きやうはし〉〈ふかさわ〉が正しく、その音どおり発音するのが正しい、となってしまう。つまり、宣長の〈正音=清音〉の主張が頭をもたげてくるわけだ。
   だが、さらに現実を考えるなら漢字一音一音の正しい意味を保存して、それを皆で共有するためには〈深沢・ふかさわ〉のほうが合理的なのである。ただし、〈ふかざわ〉と発音する人たちを貶めていくような社会的圧力は別の仕掛けでなくしていく必要があるが。
    現在の語源ブームが一語一語ばらばらな考察に終わっている現状を振り返ると、つまり構造的把握やそこへの意志が社会的に貧弱な日本の現状を改善するためには、一度〈正音」について振り返る必要があると思う。
   
    とりあえずの結論としては、意味の対立がなければ〈正音〉主体で教育は行った方がいいということになるのだろうか。特に語彙構造も大事な点だろう。つまり〈一、ニ、三〉という〈つながり〉は音韻上も保存していくが、〈一本勝負〉や〈ご飯がいっぱいある〉のように〈数としてのつながり〉から切り離されている音韻はむしろ積極的に〈音便形〉を「正書法」に組み入れるやり方が現実的なのかもしれない。
    そうするとたとえば〈秦野〉の〈正音〉はどうなるのだろう。音韻〈はだの〉を正音とするためにはいっそ、歴史的に確立した音韻主体なら平仮名表記のみに統一するという方法がよいのかもしれない。あえて、漢字表記を続けるなら清音表記を正音として統一的に用いるということである。秦野市とその市民がこういう原則を受け入れるかどうかは別にして、そうしておけば、アイヌ語由来の固有名詞は平仮名表記のみで漢字を廃止するという方法で識別することがずっと容易になる。