〈細石〉と〈細大同源〉〈用体の一体不離〉

  もう12月だ。今年は良い年だった。30年近くつとめた会社を辞めて4年半。真っ暗なトンネルの中を方向感なしに生きている感じだったが、ようやく先に光が見てきた。年初来、吉野裕子氏の〈記紀の底にある蛇神信仰〉という確かな方法に導かれて古田武彦氏に出会い、そして古事記幸田露伴まですすむことができた。ここまで来れば、この道を前へ前へと進むだけのことだ。
  古田氏の〈君が代論〉には本当に衝撃を受けた。縁あって、子どもの頃から戸隠の奥社にはよく行った。だから〈さざれ石〉から〈天の岩戸〉が出来るという歴史感覚はかなり体の奥のほうに入り込んでいる。そのことのありがたみを知ったのはデカルトの〈無理にでも、全ての細部に順番をつけて思考を進めること〉という方法を学んでからではある。それは、そうではない思考方法が世間では大手を振って通っているという事実に私自身が足をすくわれる経験を何度か実際にしてからわかったことである。
   よく考えれば日常生活では大きな石が風化作用によって崩れていくことの方が常態なのである。バブルがはじけて大会社が頼りにならないことも良くわかった。我々の親の世代が経験したことは国家の底も抜けるということである。日本人の大好きなわけ知り文句は「形あるものは全て崩れる。何をそんなにいきんでるの」が筆頭だ。それなのに〈君が代〉は逆の歴史認識を我々の身体に忍び込ませる。正直いって〈日の丸〉は単純、naive、お目出度いという感じが好きでないのだが、〈君が代〉は日本人の誇りだ。未来永劫とは言わないが、少なくとも21世紀中は大事にすべきだと思っている。
    では、本論に入ろう。古田氏によって私がわかったことは〈細れ石〉と〈細め石〉は違うということである。〈細れ石〉はただの〈砂利〉だが、〈細め石〉は〈笹目〉、すなわち〈鋭利な刃物〉だということだ。〈ささ=笹〉であるが、音韻〈さ〉は、広辞苑によれば、万葉集では〈さい=ゆり〉、そしてなんと〈あじさい〉として登場する。音韻〈さい〉は漢字〈細〉そのものである。ここまでなら風雅な歌詠みの世界で終わる。だが音韻〈さい〉は度量衡の単位でもある。それも〈石≒180 l〉の十分の一である〈才≒18 l〉なのである。広辞苑によれば「船の積荷の容積、または石材や木材の体積の単位」とある。つまり空間の大きさではなく、物体の大きさ、つまり、「重さ」の単位である。さらに同音語として推古紀から〈さい;鉏、小刀〉を、風土記から〈さい:鋤〉を採りあげている。つまり〈力動〉あるいは<力ベクトル>と〈質量〉も同源だということだ。
   そして、音韻〈さい〉こそは〈理文同源〉の重要な語彙なのである。なぜなら音韻〈さい〉は記紀にとっても重要な音韻だからである。すなわち〈狭井神社〉の名称でもある。もちろんこの神社と対をなすのは,何故か推古紀に奈良市内に遷座したという〈率川いざかわ社〉。その両社を統括するのが〈大神神おおみわ社〉である。三輪山という巨石文化の確たる証拠となる神体社。神武東征の記念碑とも言うべき地。もちろんご神体の公の顔は〈おお〉のほうである。だが本当の祭社は〈さい〉であることはこちらからしか山頂にい行けないことから明瞭である。そして率川社の方は〈月読み〉と同じく文字の歴史からは消えたも同然である。だが、この三社からは、戸隠で言えば〈宝光社〉〈中社〉〈奥社〉の関係が透けて見える。どの社が一番大事かは戦前までの人にとっては疑いようがない。〈狭井〉と〈奥〉である。そして戦前はそういう尊いところは女人禁制でもあった。(これもきちんと思い出しておこう)
    だが、このことにより、この神社が、音韻を利用して〈細・大〉を常に一体の概念として教化する装置でもあったことがわかる。すなわち〈細大同源〉の記念碑なのである。漢字をどう選ぶかは時の権力者の思惑もあり、いろいろに変えても音韻が変わらなければ、概念の持っている重要性に応じて必ず正しい理解がえられるという楽観論に立っていたということでもある。当然、上古の人々にとっては民衆のほぼ全てが漢字を読みこなし、さらに〈京橋〉を〈きょうばし〉と読むのは田舎者だというののしり価値観が一般化するなど想像も出来なかったに違いない。
と、ここまでは日本史のおさらい。いよいよ音韻文法の考察に入ろう。すなわち〈逆語序対〉。今一度歴史に戻るなら巨石文化とは運搬手段としての海運とも一体であった文化である。その二つの基本単位が導かれるのである。それととも以前から気になっている〈連用形の崩れとしての音便〉という現在の国語学の思い込みに対抗する〈連用形の祖形としての音便形〉の可能性を抽出できるのである。

・鯨を鉏で割いていく。(いさを、さいで、さいていく)
大宰府(さい) vs 宇佐神社(うさ)
・砂利 vs しゃれこうべ

・筏で、櫂を掻いて、峡を行く。(いかだで、かいをかいて、かいをいく)
・烏賊を、櫂で狩ってくる(いかを、かいで、かってくる)
・いが梂 vs かい(殻)

   この段階では〈逆語序〉は関連する両体言の関係を示している。だから現在の語彙から言うと〈大小〉のような〈逆意味〉を示している印象をあたえる。だが例文全体からは、すでに〈用体分離〉の手法となっていくものであることがわかる。
    さらにここで注意したいのは〈細大〉と〈大小〉がまた、逆語序の関係になっていることである。まだ事例が十分集まっているわけではないが、〈左右・みぎもひだりも〉〈東西・にしひがし〉〈終始・始終〉〈前後・あとさき〉など、やはり基礎概念語で何回か出会っている。そうだとすれば〈細れ石の巌となる〉の句は、あるいは正しい語順を伝えるための〈いろは歌〉のような装置だったのかもしれない。こう書いても、これは九州地方に〈細め石〉と〈巌:石長姫〉を関連付けた神楽や舞が盛んだったこととは矛盾しない。なぜなら「本歌取り」は和歌文法の大黒柱のようなものだからだ。
   用言と体言の問題にもどると、ここでも〈駄目・めだ〉と同じ ruleが適用できるのか否かが問題になる。残念ながらこの事例だけからは音韻〈い〉が用言なのか体言なのかはいえない。それが万葉仮名に甲音と乙音を識別しなければならなかったことと関係するのだろうと思うが、母音の場合はむずかしい。その上、ここまでくると体言〈さ〉が、〈石という物〉と〈石を使った物〉の両義をもち、今後の〈用体同源 文法〉の行く末が思いやられる。それで、この後に〈母音屈折 rule〉が求められていくことになるのだと考えたくなる。後世、音韻〈さ〉が接尾辞や接頭辞に還元されてしまったこととも関連しているはずだ。
    〈母音屈折 rule〉の可能性を考えていくと、それによって〈正音=清音〉というruleの実現も可能になった、あるいは逆に〈正音=清音〉の要請が〈母音屈折 rule〉の普及の原動力であったのかもしれない。何故ならここでは便宜のため現在に伝わっている〈清音〉で記述しているが、ここに書かれた音韻〈さ〉は実際には〈ザ、ジャ、ウジャ、ヤ〉とその促音・撥音・長音などなど、多様に発声されていたと考えるべきであるからである。その可能性については「アホ・バカ」の項で考えておいた。
  それにしても、こういう日本語を並べていくと、〈さくら咲く〉とか〈ヒラヒラする〉などの累音は、〈用体同源〉だった時代の化石、それも確かに生きている、現役ばりばりの化石なのではないかと思える。その後に来たのが逆語序による〈用体分離〉。それ以外に語彙を増やす方法がなかったのであろう。だが逆語序は〈用体の一体不離〉をも人々に確かに印象づけていくのである。少なくとも文字を読めない人が圧倒的大多数で、一方でエリート達が、累音に加えて逆語序という文法を知悉していた時代には。
   そして漢語の時代になってもこの方法は受け継がれていく。とうより逆語序をもち得なかった漢字語は概して日本文化の深層に同化しなかったことを意味している。日本人の思想史上、重要な逆語序対を再度、確認しておく。

〈物事・事物〉〈筋道・道筋〉〈論理・理論〉〈和平・平和〉
〈体用・用体〉〈様態・態様〉〈まざまざ・さまざま〉