subj: 鳥の目とグローバリゼイション

 かつて東京の近郊に煙突があったそうである。その煙突は「不思議の煙突」と呼ばれ、あるところから見ると4本なのだが、別のところでは1本に見える。場所によっては2本に見えるし、3本の時もあると言われていた。
 さて、この「不思議の煙突」は本当は何本あるのでしょうか?
 客観至上主義の文部省は鳥の目を仮想するから「4本」だけが正解となる。
 対してアメリカの学校では「1〜4本」となる。
 現在日本で教育改革が言われるが、その目標が見えない。それは読み書きリテラシー情報リテラシーの違いをきちんと説明しないからである。読み書きリテラシーからいうと答えは「4本」。情報リテラシーからは「1〜4本」が答えとなる。
 封建社会では人口の5%の武士は自分で意志決定をするが、残りの95%の人々はその決定に無条件に従う事を前提としていた。武士の教育は「禅」に象徴されるように「自分の目で見たもの」を疑う事を教えた。だから「今は1本に見えるが、4本に見える時もある」などと、事実を<記述する力>を育てた。しかし民が自分の見たものを信じて、武士と違う判断をしては組織規律が保てなくなる。だから「自分の目で見たもの」よりも、「長の目が見たもの」が大事であると教育した。つまり江戸時代の大衆教育の目標は例外はあっても、大勢は長の結論を<読む力>であった。
 西洋キリスト教は異端論争を通じて、全ての人々が「自分の目でみたもの」を疑うことを要求し、それが結果として現在の市民社会を形成してきている。つまり全ての人が「自分の見たもの」を疑うのであるから、「本当のこと=real」を探すためには全ての人が「目で見たもの」を<記述する力>がなければならないし、記述された結果については「見たまま=only the truth, nothing but the truth」である事は厳しく要求するが、全ては「事実」として社会に受け入れられる。つまり「Aには1本しか見えなかった」という「fact」として受け入れるのである。
 情報リテラシーの立場からは煙突の数は第一に、人々にどのように「見えたか=reality」が大事なのである。だから「1〜4本」のどの答えも正しいのである。
 一方、明治の開国により我が国も識字教育に熱心に取り組んだ。しかし西洋の識字教育は情報リテラシーの手段であったのに対し、中央集権国家を目指した明治政府はこの目的を見失って読み書きリテラシーを自己目的化していった。それは武士教育には自分の目で見たものを疑う伝統はあるが、大衆の言説から大衆一人一人のいる位置、あるいは彼らの思考の枠組みを読み取り、彼ら一人一人を救いだす系統的な訓練の伝統が欠落していたから、大衆が勝手に1本、とか4本、とか言いだしたら収拾する自信が当時の大部分の士族になかったのである。
 だが西洋では統治者の能力とはバラバラな固定観念をもつ蒙昧な大衆一人一人を導く能力であったのである。だから大衆が勝手に隊列を離れても、西洋の正統な教育を受けた能力のあるリーダーは統治に困難を感じない。何故ならば「1本」と答えた人がどこにいるのかを容易に把握できるからである。「4本」と答えた人は別の場所にいるのである。有能な統治者にとって怖いのはバラバラの答えではなく、嘘である。あるいは沈黙である。状況を把握できなければ統治不能であるからである。
 21世紀の教育の目的は第一に「見たまま=only the truth,nothing but the truth」を<記述する力>の育成とならなければならない。それは実は国民が「天皇陛下の赤子」から「迷える子羊」へと変わることなのである。その覚悟がなければ教育改革は政治改革と同様、失敗に終わるだろう。だが教育改革が成功すれば政治改革は必然的に達成されるのである。(1999/02)