音幻;日の出

    〈ひので〉という音韻はいつ頃から使われているのだろうか。
    そのことが〈ぼこぼこ・でこぼこ〉を〈現象語・存在語〉と措定してみると大変気になってくる。〈出る・照る〉の関係も気になる。私が最初に国語学の「由緒正しいやまと言葉には語頭濁音はない」という文法に疑問を持ったのも動詞〈出る〉からだった。聖徳太子の条で習う、〈日出(ひい)づる〉という言葉はきわめて人工的な匂いのする語彙だ。語頭濁音を避けるためにあえて語頭に〈い〉を付けたのか、それとも〈接頭辞い〉が名詞から動詞を作る定型文法だったかのどちらかではないかと踏んでいる。つまり、動詞名詞未分化の〈やまと言葉祖語で〉があって、それがあまりに中核の音韻だったので onomatopoeia に封じ込めきれなかったのではないだろうか。その考えがずっと頭の中で鳴っている。
    やまと言葉祖語の研究において、朝鮮語や沖縄語を参照する場合、それだけに飛びつくのは危険なのは承知しているが、ここは沖縄の方位語〈東あがり・西いり〉を補助線として使ってみることにする。
    もしも日本語祖語研究者の多くが前提にしている「沖縄には日本語祖語や日本の古い民俗が残っている」という条件が正しいのであれば、〈日本語・東西〉の祖語は〈あがり・いり〉となる。この音韻を素直に反芻すれば、出てくる連想は〈あづま・いづも〉である。だが、古事記では〈いづも〉は〈出る〉を意味している。だがあえて〈雲出る〉と、日を隠す雲のメタファに結び付けられている。そして地形を知っていれば出雲は本州の〈西・酉〉である。とすればこの記述自体がむしろ〈出雲→出鳥→酉→西→日没→入日〉のメタファである可能性がでてくる。
    一方、〈アヅマ〉は〈火山・熱い山〉である可能性も残る。だから沖縄の〈東・あがり〉を補助線にしないと出てこない連想ではある。だが〈日出る山・あづま・熱い山〉と〈あずま富士〉に二重の意味をおくことは富士山の象徴性を強化するという点では合理的でもある。
    次に気になってくるるのが〈あづま・さつま〉。この対語は〈いづも・あづま〉よりいっそう明確なメッセージを出しているように感じるが、なかなかその意を読み解けないでいた。戦後教育を受けてきたものにとっては南九州には鹿児島県というイメージしかないのだが、今回「全国一ノ宮会のホームページ」を見ていくと、どうも〈さつま・開聞岳〉と考えてよさそうである。そうであれば〈あづま・さつま〉からは〈日本の両端〉のメタファを読み取ることができる。では何故、薩摩は律令制において国名として残ったのに、〈あづま〉はヤマトタケルオトタチバナヒメの逸話〈吾妻〉に還元されてしまったのであろう。考えられる条件は、それが〈アマテル〉と紛らわしいからということであろう。
     考えられる仮説は、記紀以前に太陽の道として〈あづま・いずみ・さつま〉、すなわち〈あがる・いる・さがる〉という方位名がかなり流通していたということである。これで紀伊・出雲・伊予が音韻〈い〉を含んでいることが合理化される。もちろんこれは厳密な経度概念などでなくて、なんとなく大きな部族の居住地をそう呼んできたのであろう。そしてこの三点セットの前には〈あがる・いる〉の二元時代が長くあったことは日本語話者なら容易に想像できるであろう。〈居る・入る〉なのだから。
     だが、時代は子午線重視になり、〈音韻あ〉の特別視が求められた。そこで大きな山には〈あそ・あさま〉が与えられ、子午軸には〈ね・ま〉を当てることにしたのであろう。だがこの時代には〈音韻い〉だけがリアリティのある音韻で、〈音韻あ〉は現在のわれわれが〈あそこ〉とか〈あれ〉とか、その実在を確信してはいても、厳密な意味での直示語としては用いないような概念だったはずだ。〈音韻ね〉はその後、〈音・ね・根〉〈子・ね〉として日本思想史上重要な音韻として引き継がれていく。〈音韻ま〉は〈午うま〉として後ろで詳述する〈語頭う段〉というルールにくくられていくが、イメージとしては〈アマテル・天・あま・あまねく〉などにも取り込まれていった。
     ところが渡来文化や渡来人の影響が増し、従来のような方位概念では物足らなくなり、祭祀の精緻化の要請もあり、律令制での国名の発足にあわせて、地名の統廃合を国家事業として行うことになったのであろう。それは歴史を精緻に記述するという要請と、時の権力勢力を誇大に見せるという相矛盾した要請を統合するという仕事であったはずだ。

その事業の最大の目玉は音韻<アマテル>であったはずだ。

     そのために急いで、まず<あづま>への海上ルートの紀伊半島における終点である〈いせ〉に<アマテル>の住まいを造営した。それにより太陽の上がる場所<あづま>を正史から見えなくした。
     一方で半島の〈辰巳・いせ>を強調するために半島の〈戌亥・いづも〉を音韻だけ正式に採用したが、太陽神とのかかわりは正史には見えないように〈漢字・出雲〉をあてた。学校では習わなかったが〈出雲・奈良・伊勢〉は直線上にあるのである。
    さらに重要なことは、これも学校では教えないが、出雲大社と富士山頂が同緯度にあることである。これにより、国土の中核を富士山と出雲大社に置くこととした記紀時の支配者層の意図がはっきり見える。これは二つとない高い山である富士山とオロチのように大きくて長い水流の対比である。それは熱い山と氷のように冷たい川の対比でもある。自然と大社というartifactとの対比でもある。だから出雲からは〈大モノ主〉〈コト代主〉が現れるのである。ここにシンメトリーに還元されない、今日まで引き継がれている、日本独自の均衡美意識がはっきりと現れている。均衡とは絶対静止ではないのである。つねに微妙な揺れをはらむ概念である。だからこそ日々の努力は均衡の維持に向けられるのである。それが生の維持ということでもある。
    一方で、国土の限界はどのように定められたのであろう。それは鹿島神宮宇佐神宮にはっきりと示されている。日の出る東方は〈音韻あ〉から導かれた〈か〉が当てられ、一方で日の沈む西方には新しい音韻〈語頭う〉が用いられ、そのことにより〈あづま〉以東を〈むさし〉〈むつ〉という〈語頭う段〉で:統合したのである。
     とにもかくにも、ここにおいて〈あづま・さつま〉は〈むつ・さつま〉と変換され、、事実上〈やまと・日本〉の〈丑寅・未申〉をさすこととなった。
     まとめると以下のようになる。

[東] [西] [南] [北]
[鹿島神宮] [宇佐神宮] [午] [子]
       
[丑寅] [辰巳] [未申] [戌亥]
[むつ] [いせ] [さつま] [いづも]

   ここで本論〈日の出〉に戻ると、やはり〈でる・てる〉の操作が必要であったことがわかる。〈アヅマ〉を連想させる〈東・あがり〉よりは〈アマテル・照る〉となじむ〈日出る〉の方が音韻的にすっきりする。それで〈日の出〉の瞬間を〈ひので〉というようになったのではないだろうか。その代わり〈音韻で〉の正字は〈て・天〉にも通じるので〈てん・天・あま〉という不自然な現象がおきてしまったが、漢字について庶民の老婆が疑問を持つような大衆皆識字社会の到来は考慮の外だったに違いない。
    もちろん〈日あがり=東〉の音韻もそれ以前に深く広く浸透していたはずで、だからむしろ〈東;ひ(あ)がし〉へと意識的な音韻変更を行う必要があった。そのための操作が神武東征の〈日向か〉である。これにより〈東・ひあがり・ひむか〉の導入が達せられた。これのためにこそ〈宇佐神宮〉は〈語頭う〉である必要があったのである。つまり、太陽の道は〈語頭う段〉というルールの導入が行われたのである。
     古田武彦氏が読み取ったようにそれ以前の九州では〈さつま〉とならんで〈音韻ささ〉が重要だった。その証拠が全国一ノ宮のホームページにある豊後国の両一ノ宮〈ゆすはらはちまんぐう〉〈ささむたじんじゃ〉である。現地の人は〈いすはら〉と呼ぶらしい社と現在の学校教育から想像もできない〈西寒多・ささむた〉なる神社が残っている。〈いすはら〉とは〈日の入る原〉であろう。両音韻ともかつてはクニの西端に位置していた名残である。
    最後に念を押すと対語という考えから言うと〈あがり・いり〉も不自然な対である。もともとは〈出る・入る〉だったのが〈あがる・さがる〉を経て〈あがり・東西・いり〉という時代がきたはずである。それが沖縄に残っているのである。そのあたりのことを分析すれば、〈でこぼこ〉を含む、新しい知見を将来は発掘できると考えているが、今はここで終わりたい。