「認知言語学による大和言葉祖語へのアプローチ」

  2006年春から、あるオープン・カレッジで認知言語学の講座を聴講した時のレポートが上記の10枚ほどの作品である。内容は前半が先日書いた「構文論と統語論」を補完することになる「直示法」とか「直示文法」への試論で、後半は直示辞<こ・そ>への考察になっている。前半と後半は相互に補完しあう構成になっているので読みにくいとは思う。だが、どうも私の思考回路はそのようにしか進んでいかないのである。
http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/gengo06.pdf
    題名の根拠は、すでにこのブログでも書いているが、世上の「日本語祖語論」への過度の関心に対する疑問から来ている。無文字社会がわれわれのルーツである以上、その姿を復元したいというのは素直な願望ではあるが、それが可能になるためには段階を踏む必要があるのである。つまり、正しい方法に基づかなければならないということである。
   昨年来、吉野裕子の著作を読んできたのは、その作業の第二の段階であった。それは、「記紀のそこに潜む蛇神信仰」という方法である。
    もちろん、これを第二段階という以上、第一段階があったのである。それはこのブログで触れているとおり「アイヌ語」と「古琉球語」である。いくつかの書物を読んでいってわかったのは現在ののわれわれが如何に、<名辞=存在語>という思い込みの世界に生きているかということである。そして古代の人々のありようを描きたいたのなら、まず<名辞=現象語>という世界に生きる覚悟が必要だということに気がついた。
      この作業はなかなか困難で、今でもかなり呻吟したあとでやっと<存在語→現象語>という変換が可能になる。(これはちょうど、Boringの絵に老婆を認めているときに一瞬にして若い女を認めるのが困難であるように、あるいは(vice versa)、若い女のうちに老婆を認めるのが困難であるよう事柄なのだと思う。)
   もっと速くこの変換ができるようになるためにはまだまだ修行が必要である。だが、第二段階の「記紀のそこに潜む蛇神信仰」に迫る作業においてもこのような姿勢が役に立った。典型例はブログの「古神道の中核音韻〈ぼこ・ほこ〉」と、いくつかの「音幻」シリーズである。それと語法<逆語序対>という仮構への確信も得ることができた。