〈subject〉 と 「てにをは」 と 〈もんく〉

   『近代日本語の思想』の27ページで柳父章は三上の説を支持しながら以下のように書く。「それは、近代以後の日本は、西洋の文法理論をモデルとして受け入れた、というだけでなく近代の日本語じたいを、西洋文をモデルとして作り変えて来た、という事実である。とりわけ書き言葉の日本語は、ほとんど全面的につくりかえられた。つまり西洋語の翻訳を通じて、日本語じたいを新しく作ってきた、ということである。」
   その後でさまざまな明治期以降の文体を翻訳体中心に考察している。だが、翻訳文のわかりにくさは文体からだけくるものだろうか。というより文法の構文の読み取り行為への寄与というものはそれほど重大なのだろうか。日常の言語生活においては語彙構造のほうがはるかに大きな問題なのではないだろうか。
    例えば日本語能力試験英米系の人々にとっては漢字というハードルがあるので、きわめて難しいということになっている。だが、中国系の人々にとっては二級試験合格はそれほど難しくない。だが二級合格した中国人が日本語の新聞を音読できるわけではないし、日常会話で〈てにをは〉を正しく使えるわけではない。それでも彼らは日本の新聞をみればおおよその内容がわかる。それは書記語彙を共有しているからである。
    そして構文とは「何かと何かとは関係がある。」で、統語とは「何かがどうかした」あるいは(vice versa)、「どうかした何か」だということさえわかっていれば意味をとっていくことはそれほど難しいことではない。ただし、意味をとるということが学校国語や学校英語のように直訳文が教師の気に入る形になっているというコトだと考えていれば私の言うことはわからないと思う。私の言う「意味をとる」とは『日本語練習帳』に書かれた〈縮約〉ができるということである。それは、ひらたく言えば〈ということは文〉とか〈ようするに文〉を相手に応じて的確に書いたり言ったりできるということである。
     そのとき役に立つのが語彙構造なのである。文脈、あるいは階層、やまと言葉でいうなら<まえおき>の指標だからだ。英語の building vocabulary とはよくいったもので、線状性の優越した言語生活の中で語彙構造を人々は作り上げていくのである。そして語彙の翻訳は語彙構造に支えられなければ機能しないのである。
      私には最初、主語と主題の違いが理解できなかった。今回柳父の著作を読んで三上の頭には、〈〜についていえば〉〈〜については〉という読み下し文があったと指摘されてやっと三上の主張の真意がおぼろにわかった。というのは、英語のsubjectには主語という意味も主題という意味もあるのだから、当初どっちいでもいいとしか私には思えなかったのである。
      よく、やまと言葉は多義的であいまいだから漢字の助けを借りないと論理的な文章を書いたり、思考したりすることはできないといわれるが、英語も多義語の、よく言えば豊富、悪く言えばあふれている言語なのである。英語ではその解決法として対語の選択が行われる。subjectについて言えば主なものだけでも以下に列挙できる。それらの日本語翻訳語も書いてみよう。

King-subject 王ー臣下 殿上人、お目見え以上。要件は家之子・郎党をもつ主(アルジ)
subject-object 主体ー象・客体  
subject-object 実体ー物体
subject-object こちらーそちら(オタク) コンピューター用語では物体性をともなわない処理対象データがobject
subjective-objective 主観的ー客観的  
subject matter-thing 主題、対象ーもの、物体

さらに自然科学では音韻対をなすobjectはsubjectから派生したsubstanceと対語をつくる

substance-object 物質ー物体
substance-object 形がないものーかたまり

ついでに英語話者にとってはsentenceも多義語なのである

sentence of sentence 量刑判決文章
sentence of verdict 有罪判決文章
sentence-a sentence 文章ー単文
sentence-subject 文章ー主題

参考までに、学校英語で習う文法用語

subject-object 主語ー目的語
sbuject-verb 主語ー動詞
nominative case-objective case 主格ー目的格
subject-predicate 主部ー述部
main clause-subject clause 主節ー従属節

   上の一覧から、次の仮説を3つ抽出しておく。

1)英語において重要なのはobjectであって、subjectはその派生語である。

   それは日本語のモノから物・者が派生した関係と相似である。そうすると文法用語の〈主格〉という語が日本語の語彙体系からみてもおかしいことになる。〈おも・主・あるじ〉の両義ではあっても日常では〈主・客〉の対語として機能している日本語の語感とはかけ離れている。ただし語法〈逆語序対〉が機能しているのであれば〈おも・もの=実体・物体〉の対語を連想した漢文の素養のある人々の翻訳は理にかなっていたと見ることができる。だが語法〈逆語序対〉が見失われてしまった日本語社会では〈主格〉という用語は〈変strange〉としか言いようがない。つまり以下の2つの文例における「サクラ」は共にobjectだということが見失われたままで、日本語を国際化することはできないということである。
(1)サクラがサク(こと)
(2)サクラをサク(こと)
     これは日本語文法の〈主格しゅかく〉をやまと言葉にのっとって、〈おもかく主格〉と読みこむことではっきりさせることができる。(1)の〈が〉は〈おもかく主格助詞〉であり、(2)は〈あるじかく主格〉が空位の文型だと考えるのである。助詞不在でも三語まではなんとか語順だけで意味を整理できたとかんがえてさしつかえない。そしてこの段階で構文も成立したと考えることはとっぴではない。最初に来た語が三上のいう主題となる。英語でもこの段階までは同じ語法だったと思われる。その痕跡が〈首題=topic〉。
(1) 現象語; サクラ、さく
(2) 行動語; 主(アルジ)、サクラ、さく
(2)’     ; サクラ、主(アルジ)、さく
   そして、物と者の判別さえしっかりいできていれば現象語を存在語に変換することも容易である。そこから名辞が発生したと考えることは突飛ではないはずだ。
   欧米系の言語学の教科書では「古代の日本語には抽象名詞がすくない」とあり、その含意は「遅れた未開の言語」とならざるを得ない。この点については柳父も引用しているとおり、大野晋も同意している。だが、現代の日本の状況を考えれば抽象名詞が氾濫する危険性の方が大問題ではないだろうか。むしろ、具体から抽象を行うルールが定められてあることの方が社会規範としては高度なのである。
    その規範の一つが語法〈逆語序対〉である。これにより当該社会は存在と現象の関係を多く成員にわかりやすい形で流通させることが可能になった。
   存在語; さく ラ(→名辞)
   存在語; さく 主(アルジ)(→名辞)
   存在語; さく モノ(→名辞)

こういう方法は自動詞なら英語でも見つかる。(他動詞になるとこのルールははっきりしなくなるが。)

存在語; biooming blossom(咲く桜) Mr. Bloom (裂き事する人
    bloomed blooms (裂け物)
現象語; blossom blooms (桜咲く)   bloom into blooms (裂け物にする)
2)「てにをは」は日本語理解の鍵である

    以前にも書いたが発語の機能からかんがえるとpull伝達の後でpush伝達が派生したと考えるのが穏当なところで、push伝達の概念が確立するということがsubject概念の確立と重なるはずだし、そのとき〈なにかとなにかとは関連がある〉という主部と述部からなる対応概念が確立したのだと考えるならば民間に伝わる〈てにをは〉というネーミングは伝統文化として大事にしていきたいものである。
     そのためには、現在、文法書がもっとも重視する助詞〈が〉が抜けていて、〈は〉が最後に位置づけられている理由をはっきりさせる必要がある。そのことを探っていくとき古代の小集団で情報価値が高い語型はどれかという点に行き当る。集団行動の目的の第一が食糧確保だったとすれば〈どこに何が〉ほど重要な情報はないはずだ。そのとき四季の明確な日本では〈何が〉情報は既情報として扱われることが多かったはずである。そして収穫が終わった後では当然メンバーへの論功が問題になったはずだ。だったらまだ〈あるじ;家之子郎党の長〉という概念が確立する以前の社会、古事記で言えば〈主ぬし〉がまだ神権政治のなごりを強く引きずっていた時代には、頻度の高かった会話例は以下の2パターンになるはずだ。

斥候A; Aで(見つけた)。    斥候B; Bで(見つけた)。      主(ぬし); Cに(行く。)
斥候A; Aに(多くくれ)。    斥候B; Bに(多くくれ)。      主(ぬし); Cに(多くやる)。

  これを斥候という民衆の立場から現代に風に書けば以下のようになる。
  事実語; トコロで(ある。) 
  決着語; トコロに(なった。) 
    集団活動で大事なのは、言うまでもないが、情報収集とリーダーの決断、そして行動の結果評価である。その時、場所概念と成員概念が分離した。しかし概念は分離したが日本では氏族の名前と地名が重なっているので、語型はかわらない。それで、判断主体の(主ぬし)の発言としては同じ型でも十分機能したはずである。機能している限り型をふやす積極的理由はない。それで、この時代に確立した〈で・に〉の対立が現代の日本語構文にまで続いてきて、現在の基礎語型に、はっきり刻印されている。
   その後に、ようやく助詞〈を〉の導入によって(主ぬし)はさらに多様な内容を宣旨することが可能になった。そのもっとも重要な点は二つの〈主格〉、すなわち〈おも・主・あるじ〉の概念を確立したことである。それは〈おも格が・を〉の分離でもある。現在の日本語文法は〈は・が〉に過剰なまでの焦点をあてているが、外国人の学習者にとっては〈が・を〉の対比の方が大事なのである。ここがわからないで〈は・が〉の使い分けなどできるようになるはずもない。
    ところが〈おもかく主格助詞が〉は、「てにをは」には入っていない。これは、それが会話では〈空位〉で流通するのが日本語の伝統形式だからである。それが〈文節clause〉内での〈は〉の目印として頻用されたり、単語単位から文節単位の習慣の普及の中で新しく頻用されるようになったのはごく近年の出来事である。だから〈おもかく主格助詞が〉から日本語を照射すると日本語の歴史的発展の筋、すなわち日本語の成り立ちが見えなくなってしまう。そして同時にここで大事なのは〈主ぬし〉もまた〈主あるじ〉へと、すなわち神の代理から人間の代表へと、そして判断するだけでなく、行為の主体者として民衆の前に登場したということである。しかしまだ神性を引きずっている限りその行為は「命令行為」にとどまる。しかし概念としての〈主あるじ〉は十分に成熟し、声として明確に位置づけれられる時代となる。
  決着語
   ・現 象;〈主ヌシ〉いわく、あるトコロに、サクラ、サク
   ・動 作;〈主ヌシ〉いわく、あるトコロで、サクラをサク(事をさせる)


   ・原因物;〈主ヌシ〉いわく、ある物で、サクラ、サク
   ・恩 賞;〈主ヌシ〉いわく、ある者に、サクラ、サク  (合格、朗報、etc)

   
    ・道 具;〈主ヌシ〉いわく、ある物で、サクラをサク(事をさせる)
    ・使 役;〈主ヌシ〉いわく、ある者に、サクラをサク(事をさせる)


  行動語(ずっと後代になって発語されることになるが、概念はあったはず)
      ・オラ、あるトコロで、サクラを見かける
      ・オラ、あるトコロで、サクラをサク
      ・オラ、ある物で、サクラをサク

    そしてさらに次にくる構文の確立には行動する〈主アルジ〉だけでなく、話す主体としての民衆の誕生がなければならなかった。つまり、〈主アルジ〉につき従う家之子郎党が公の場で発語を始めたということでもある。それが〈あるじかく主格〉を誕生させたのである。社会は〈ぬしーあるじー者たち〉という階層社会に成熟したということでもある。そうなれば家之子といえども他家の者に対し〈主アルジ〉について責任ある発言をしなければならなくなる。そうなった時に偶然みかけた主の様子について口をついてできただけの現象語とは異なる熟慮の言が必要になる。それこそが〈主部〉と〈述部〉からなる対応文である。その後の段階で、相手に応じて文体を使い分けることになる。そこで奏上文体から報告文体までいろいろなバリエーションができたが、要は中核に来るのは対応文だということだ。

現象文;   ・〈主アルジ〉が、そこで、息子に読書を命じた。
報告文体;  ・〈主アルジ〉が、そこで、息子に読書を命じたモノでございますから、・・・・・。
事実文;   ・〈主アルジ〉は、そこで、息子に読書を命じたモノ。
報告文体;  ・事情がありましたモノで、〈主アルジ〉は、そこで、息子に読書を命じたモノにございます。
対応文;   ・そこで息子に読書を命じた〈主ヌシ〉は、えらいコト。
報告文体;   ・そこで息子に読書を命じた〈主ヌシ〉は、えらいミコトにございます。
3)〈もんく〉がわからなければ、日本語の成り立ちはわからない

    大野晋氏は日本語の〈文ぶん〉と〈sentence〉は同じではないと書いておられるが、どう違うのかまでは明示されていない。この問題を考えるためには日常語の中に手がかりを求めるしかない。まず大事なのは江戸期までは民衆は無文字が前提だったことである。実態的には江戸ではロンドンよりも識字率は高かったようであるが、規範意識も慮外におくことはできない。しかも英語と日本語の歴史を考えるときにヨーロッパの言文一致運動はギリシャラテン語の書記言語と日常言語の統合であったが明治期の日本では漢文書き下し体と西欧語翻訳体と文句と語りとハナシの五つ巴の統合作業だったことである。、
    面白いのは〈はなし〉には単独では負のイメージがないのに〈もんく〉〈かたり〉には負のイメージが強いことである。だから普通はこういう語を分析してもしょうがないと考えるのだが、私はまず、〈異・偉〉と考えるから、きっと古くからある由緒正しい語彙なのではないかと仮説をたてる。
    じじつ〈はなしか〉といえば落語家をさし、もっとも新しい文芸である。〈かたり〉は源氏物語から平家物語をさすのであろうが〈騙り〉と、詐欺の隣に落ちてしまっている。そこにあるのはfictionであるということであろう。ではヤクザのけんかの場面で「なにー、モンクあんのかよー」のように使われる〈もんく〉の背景は何であろう。以下の文例を見てみよう。
   ・田中くん、先日のことでハナシがあるんだけど。
   ・田中くん、先日のことでモンクがきているんだけど。
   ・部長、先日のことでおハナシしたいんですけど。
   ・部長、先日のことでヒトコト申しがあげたいんですが。
    どう考えていっても〈もんく〉は上司部下の間では直接使わないのである。ここではっきりするのは〈ハナシ〉は構成された、つまり熟慮の言を意味していることである。つまりpush伝達体である。もちろんその内容はprotestや小言である場合もあるだろうが、あくまで熟慮された言として提示されるということである。それに対して〈モンク〉〈ヒトコト〉〈コゴト〉は熟慮というニュアンスをあえて避けた表現と見ることができる。それにより会話が紛糾したときの逃げ道を残しているのである。
     さらに〈コゴト〉は上司からのみだが、〈ハナシ〉と〈ヒトコト〉は上下双方向であることより近代的な概念とみることができる。そうであれば〈一言居士〉や〈ひとことぬし〉という名辞はその社会の成熟度の指標と受け取ることができる。その対語は〈大言〉であるが、現在は四字熟語〈大言壮語〉が残るのみである。熟慮に値する出来事を〈おおごと大事だいじ〉とは言うから、かつては〈奏上=大言・大事=奏上に値する事〉という使い方があったのかもしれない。そうであればその中核にはpush伝達構体がきたであろう。
     ここまで考えてやっと〈歌の文句〉という慣用語を思い出した。〈詩の文句〉もあるが、ようするに〈口を衝いて出てくる言〉というのが中心語義である。
     と書いても、まだ釈然しない。
     いっそ「モンモンとモだえクるしんで出す句」の方が音韻イメージにはつながる。そういえば日本では詩の句は〈呻吟〉することになっている。とすれば、〈モンク=のろい〉が導ける。やくざの使い方が古い語義を示していたことになる。もっとおとなしい使い方でも、苦情と同義である「客の文句」。
     とすれば漢文経由の〈文言〉が公式には頻用されてきたのも納得できる。広辞苑では〈文章や手紙の中の文句〉とあり〈詩歌・文章〉という対比でいいことになる。近代的でのろいの痕跡など微塵もない実用的な〈気のきいた文句の一つ〉や<決まり文句>と、呻吟してうみだす〈もんく〉が江戸時代には同じ音韻で使われていたと考えてよいのではないか。ただ、厳密な区別をする必要があるときは〈文言〉を用いたということであろう。書かれたものであれ、口からでたものであれ、それは〈熟慮の言〉でないことははっきりしていたのである。一方、詩の〈もんく〉は熟慮の言ではないだけでなく、〈呻吟の言〉でなければならなかったのである。熟慮はないが真剣さはたっぷり、となれば腹のそこからのウメキであることが求められた。
   〈文ぶん〉と〈sentence〉の本題に戻るなら、〈かたり〉こそが日本語構文の原初であろう。とすれば古事記が最初の書記であるが、これは当時〈フルゴト〉と呼ばれていたはずである。当時、その対語は何だったのだろうか。単なる〈コト〉であろうか。
    ま、とにかく日本人が発語における〈構え〉を意識したのは〈型り〉においてであったようである。それが〈昔かたり〉〈とはず語り〉を経て〈昔はなし〉〈おはなし〉となり、いつの間にか庶民も自分の日用の会話を構成する能力を身につけていったのは遅くとも江戸時代である。ただし、祈り、あるいは呪文をルーツとする和歌体のような宮廷政治につきものの「もってまわった言い方」とか「直截でない言い方」を賛美する風も同時に日本社会に広まっていった。そこにはいい面もあるが、必ず悪い面もある。そこを見ないで伝統礼賛だけに陥ることは避けたいものである。そのためには〈もんく〉の重層性とそこから広がっていく含意のありようを忘れないようにしたいものである。

以下、参考。

対応文;  ・客は、出ていくこと。
報告文体;  ・お客には、出ていってもらうことになりました。(/〜としました。)
伝達文体;  ・お客には、出ていってもらえ。
文句;  ・出ていけ!、出ていって下さい。
おら、言いたいんだ文体;   ・お客さんが出ていけばいいんだよ。
に題説文体・対応   ・客が出ていけva、わしらには都合がいい。
に題説文体・伝達   ・(わしらには都合があるから、お客さんva)出ていけ。
文言;  「少年老い易く、学なりがたし」
対応文;  ・人間、年をとるのは簡単だが、学問は時間のかかるものだ。
報告文体;  ・少年は老い易く、学はなり難いものだそうです。
伝達文体;  ・子のたまわく、少年老い易く、学なり難し。
文句;   ・学問っていえva、それは、なりがたいモノのコトだ。
おら、言いたいんだ文体;   ・オマエ、しっかり勉強しろよ。

 対応文
   ・オレ、名は田中。
   ・オレ、ウナギがいい。
   ・主、家中で読書中。
   ・主、本で勉強中。
   ・お客は、顔のきれいな人。
   ・雨は大変。

 報告文体(I would like to say that)
   ・(私は、名を)田中ともうします。
   ・私、ウナギをva、頂戴つかまつります。
   ・主は、家中で読書をしております。
   ・主は、本で勉強をしております。
   ・お客は、(顔の)きれいな人でした。
   ・雨が降ってきましたので、(皆は)いろいろ大変でございます。

 文句
   ・おら、田中。(よろしくね)
   ・おら、ウナギ。(よろしくね)
     (おらに)ウナギ(丼を出して)下さい。
   ・主は、家中で読書中。
   ・主は、本で勉強中。
   ・おっ、すごい美人。
   ・おい、雨だよ。

 おら、言いたいんだ文体(I'm telling you that)
   ・おらは田中だ。(含意例;よく覚えておけよ)
   ・おらはウナギだ。(含意例;医者に止められてるけど、知るか)
   ・主が家の中で読書中なんです。(含意例;困ってるんですー)
   ・主が本で勉強中なんです。(含意例;未だ、終わらないんですー)
   ・あの人、ホントに、きれいだねー。(含意例;僕のことなんて無視だろうな)
   ・大変だ。雨だよ。(含意例;洗濯物入れなくっちゃ)

文言;  「春は曙」
対応文;  ・春は、曙がいい。
報告文体;  ・春は、曙がよろしいと言われています。
文句;  ・春っていえva、それは、曙がいい季節のコトだ。
おら、言いたいんだ文体;  ・おら、春の曙が大好きさ。
文言;  「象は、鼻が長いモノ」
対応文;  ・象は、鼻が長い。
報告文体;  ・象とは、鼻が長いモノのコトとなっております。
文句;  ・象っていえva、それは、鼻が長いモノのコトだ。
請負文体;  ・象って(いうモノは)、(オラが見た限り、皆、)鼻が長い んだ。
事実文体;  ・(オラが見た限りでいえva、)象(というモノ)は、体が大きくて、鼻が長くて、すごい力持ちで、目が小さいモノです。
文言;  「賎心なく花のちるらん」
報告文体;  ・花が穏やかに散っているように見えます。
対応文;  ・花は、散るもの。賎心は心穏やかじゃないもの。
おら、言いたいんだ文体;  ・散っていく私は賎者同然なんだよ。(含意例;恨めしやー)
文句;  ・さくら、さく(含意例;いい事)
対応文;  ・桜は花が咲いた。
報告文体;  ・桜の花が咲きました。
伝達文体;  ・桜の花が咲けva、ソラ、お花見だ。
おら、言いたいんだ文体;   ・うれしいねー、お花見だ。
metaphor文;   ・サクラ、チル? (それは、)残念だね。
対応文;  ・女の人は髪が長い。
報告文体;  ・その女の人は髪が長い方でございました。
文句;  ・女っていえva、それは、タイガイ、髪が長い者のことだ。

注) 請負とは、すでに流通している常識なり決定を自らの経験や意思によって担保すること


以上


■以上の文例のいくつかは、<已然形=仮定・命令>という通念の再考を求める根拠になる。あるいは(vice versa)、 そのような通念への疑問が上記の文例を正当化する根拠となる。(07/03/28)