「ODA予算 3位転落」

広辞苑には「転落」の意味が三つ出ている
①転がり落ちること
②落ちぶれること
③堕落すること
さらに用例のトップに「首位から転落する」があがっている。googlで検索するともちろん最初にあがってくるのは物体の転落で、二番目が企業やスポーツ団体の首位からの転落、そして三番目が一般法人の赤字転落や再建団体への転落が出てくる。まずは穏当な結果である。


   ところが今朝のNHKのニュースは「ODA予算 3位転落」と文字見出しで伝えた。念のためwebで見るといくつかの地方新聞も同じ見出しを使っているから、配信元がつけた見出しのようである。
    しかし、よく考えるとODA予算は必要があるから実施するもの、というより世界中の国が豊かになって、いずれはODA予算が必要でなくなる世界を実現するのが目的のはずだ。それに、予算は法人のような団体ではない。やまと言葉で言えば、コトもコト、モノ性が極度にないのにどうして「転落」できるのだろう。例えば、声なら「玉をころがすような美声」とは形容できても、「声が転がってきた」とか「声が転落した」などという表現はありえない。
    それが数字を並べたとたん、順位が確定し、順位なるものが、モノとして我々にのしかかってきても構わない、というような文化はいつから日本の文化になったのであろう。
     今マーケッティングの世界でもマーケッティング用語から軍事用語を除いてみよう、あるいは少なくとも何気なく使っている例えば「キャンペーン;限定された一定期間の戦闘」の原義に自覚的になろうという動きが出てきている。これはいいことだと思う。
     そうであれば、日本語の報道においても競争をあおるだけの表現についてもう少し慎重な扱いがほしいと思う。これは教育問題で強く意識したのだけど、学力調査の結果はとても大事だけど、その結果を生かすには専門家と現場の先生方による共同の洞察が不可欠なのである。それなのに、新聞やテレビは「世界で何番目だった」「すわ、転落だ」というような報道ばっかりしているのである。
    学力だって予算同様コトなのだから「転落」など、とうコロンだって、できないのである。それを簡単に「転落」と表現し、それを何気なく見過ごしているのはmetaphorという概念に対して正の評価しか現在は与えていないからだと思う。
     その恐ろしさは最近の「うむ機械」事件でつとに知られた。話を面白くするのに、そして一つの立場、共通の価値観で固まっている集団の意気を鼓舞するのにはきわめて有効な言語技術ではあるけど、一歩外部の人間に届けば火に油を注ぎかねないおそろしい技術なのである。だからこそ日本人は一歩外に出ると必要以上に寡黙になってきた。「口は災いの元」というのはその意味で正しいのである。
     又聞きではあるが、NHKは「うむ機械」事件を反省してmetaphorを安易に文字見出しにしないことを決めたという。そうであれば大きな通信社からの配信見出しであっても、モノとコトという日本語の中核にある概念を破壊しかねないmetaphorの取り扱いには慎重であってほしい。
     公の世界で発言するのは勇気も要るけど、技術もいるのである。そして技術は学べるものである。学ぶということは学校だけで行うものではなく生涯をかけて行うものだとすれば日常触れるメディアが実践する「語り口」こそが何よりの教材なはずである。子供の国語力が世界の他の国よりも劣っているとすればまず第一に疑うべきは大人たちの日常における日本語のレベルであって、学校の教科書や先生の問題はその次に検討されるべき問題ではないかと、私は思うのである。
     しかし、順位と結果主義の報道に慣れてしまうと、そういうことが見えなくなってしまう。