音韻対〈よ・や〉

    母音屈折対〈お・あ〉ルールが日本語音韻の古層にでんと横たわっていることは大野晋氏も指摘しているわけだが、現在に残る、その中核をつかみかねている。ただ、正式な発語法では神への呼びかけは〈よ〉で終わり、上から下への呼びかけは〈や〉でおわる。だから現在でも〈神や!〉という呼びかけはありえず、尊称抜きに名指すときに〈神や仏たちは〉という形になる。この点はキリスト教の主祷文(主の祈り)でも引き継がれている。wikipediaより引用して、語末母音を行頭に抜き出してみたのが以下。
■文語調
o天にまします我らの父よ
a願わくは
eみ名をあがめさせたまえ
eみ国を来たらせたまえ
eみ心の天に成る如く地にもなさせたまえ
e我らの日用の糧を今日も与えたまえ
e我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
e我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
i国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
anアーメン
■現代調
o天におられるわたしたちの父よ、
iみ名が聖とされますように。
iみ国が来ますように。
iみこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
iわたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
iわたしたちの罪をおゆるしください。(わたしたちも人をゆるします。 )
iわたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
u国と力と栄光は、永遠にあなたのものです
anアーメン
    一方の<や>は、すでに語彙化している〈じいや〉〈ばあや〉〈ぼうや〉などにより、古層に上から下への呼びかけの〈や〉が存在したことと、それが〈親しみ称〉として現在に引き継がれていることがいえる。一方、俳句の「切れ字」の伝統は〈や〉に、依然として強いメッセージ性を付着させている。これは、〈主からの呼びかけ〉印であった〈や〉を、〈皆の衆への呼びかけ〉印へと倒置したものとみることもできる。

解釈例「みんな知っている?古池があったんだよ。そこでさー。・・・・・・・。」

    そして、〈よ〉はまだ尊称としても残っている。新聞の見出しなどでも「長島よ。がんばれ!」などと使われる。だが公職にある人たちには肩書きが呼びかけ語に置き換わっている。だからサラリーマン社会でも「田中さん」「田中部長」は呼びかけ語として通用する。そこに〈よ〉〈や〉を加えると、かえって調子が狂ってしまうのが現在。
     いや、健在な呼びかけ文型がある。「田中くんよー。」
     これが来たら、面倒ごとを頼まれることを覚悟しなければならない。だがこの文型は、そのままでは田中部長には使えない。以下のカタチが妥当なところであろう。そのカタチは部長も使うことができる。
     「ねー、部長。いいですよねー。」
     「ね、田中君。いいよね。」  「な、田中君。いいな。」


   現在のところはこんなところであろう。
   二つの主祷文から見えるのは、文語調のから現代調は< i >へと移行していることであろうか。




■遠い幼い日に母から教えられた祈り(頌栄文と請願文では文末が違っていた)
o天にまします我らの父よ
a願わくは
oみ名のとおとまれんことを
oみ国の来たらんことを
oみムネの・・・・地にもおこなわれんことを
e我らの日用の糧を今日、われらに与えたまえ
e我らが人を赦す如く、我らの罪を赦したまえ
e我らを試みにひきたまわざれ
e我らを悪より救いたまえ
anアーメン

■メモ 逆語序対<頌栄・請負/請願・願望>
     対語〈頌・願〉〈公・私=源〉